8/23/2014

黒と黒







〈録音1〉
そうね、もっと小さめの密閉容器にすればよかったのね。それがね、聞いていた話と違って、実物のスライは、思ってたよりも小さかったの。几帳面なのね、私。でもあれより小さい密閉容器だと、スライが入らなかったかしら。スライ如きの為に、スライを保存する密閉容器ひとつ買うのにも躊躇したけれど、まあそれも必要経費だったのよね。なんの飾り気も無い半透明のアレ。その密閉容器に入れたスライを冷蔵庫で保存するのも、それではいかにも狂人扱いされ不愉快な気持ちにさせられるかもしれないと躊躇したけれど、あの暑い夏に長期間保存するのに、我が家の中で冷暗所といえば冷蔵庫しか思いあたらなかったの。そしてついでにね、アイスピックも買ったの。お店にあった一番長いピック。うちのキッチンの引き出しに入っている短いピックでも事は足りたのだけれど、やっぱり気持ち的にね。特別驚くほど、高い物でもなかったですし。アイスピックは長い方が振り下ろす時に、そしてスライを貫通する時に、容易ではないかしら、と思ったの。それに、先が尖って銀色に光る物って、いくつ家にあっても、邪魔にはならないでしょう?ふっ、お金を払う時、デパートの店員が面白い人だったわ。だってご丁寧に、ご自宅用ですか?なんて訊くのよ、笑っちゃったわ。密閉容器とアイスピックよ、わかるかしら?だからあえてプレゼント用にラッピングしてもらったの。店員は不思議そうな顔をしながら、包装紙の表面に、リボン付きのシールを貼り付けていたわ。その様子を遠くでまじまじと見つめながら、よくぞラッピングしてくれたものだと思ったわ。流石日本橋ね。まあ、あの日は休日で時間に余裕もあったし、それに店内でもう少し涼んでいたかったの。そして買い物が済んだら、急に喉が渇いてしまって、帰りに銀座で降りて、裏通りにあるカフェに寄り、琥珀色に透けるアイスティーを注文したの。お店の名前はええと...思い出せないわ、フランス語だったような......そう、クリスタルグラスの中のアイスティーは、それは綺麗な色で、暫く見惚れていたら、グラスがカランカラン音を立てて、そのうちに氷が全部溶けちゃったの。一口も飲まないうちによ。確か1時間ほどそのカフェに居たかしら。それからきっかり4時にカフェを出て、新橋方面に歩いたの。途中、通りかかった書店に入り、たった一冊だけ取り扱っていた丸山眞男の本と、ファッション誌を買ったの。ファッション誌の表紙に大きく、この秋冬のトレンド、とかなんとかと見出しが書いてあって、秋冬の到来はこれからなのに、だからこの秋冬はまだ何も流行ってはいないのにねって思いながら。そして新橋から電車に乗って。うちに帰り玄関に入ると、大きい靴が左右バラバラに脱ぎ捨てられていたの。右側なんて外側に倒れていたわ。それでその靴のつま先をドアのほうに向けて、揃えて置いたのね。その瞬間、ほんの2、3秒体が動かなくなってしまって、突然頭の中で何かがスパークしたの。...いいえ違うわ、スパークする準備が整ったからスパークしたのね。しつこいようだけど、几帳面なの、私って。......あの日のことで憶えているのはこれぐらいかしら。その後の事は、もう無我夢中で何も憶えてないの。......ごめんなさい、折角いらしてくださったけれど、今日はもう疲れました。申し訳ないのですけれど、またいらしてくださいませんこと?

〈録音2〉
それはつまり、理由...ですか?...それとも原因といった意味合いでよろしいのでしょうか?...さあ、私にもよくわかりません。ただ、スライが動いて動き続けることが許せなかったのです。スライが命令を下す、そしてその命令が実行されてこそ、スライは生き延びることが出来たのですもの。あの時もそう。スライが命令を下した。スライからの仕打ちに微細でも逆らうと、私は立つこともままならなくなるまで。でもね、スライはいつも陰に隠れて、姿を現すことはなかったの。そしてどこまでも貪欲なスライは、私の苦厄を餌がわりに食べていたのです。だから昨日も話しましたけれど、 もっと丸々と太っているのかと、思っていたのだけれど...あ、私が今話したことの意味、おわかりになります?...あ、それならよかった。ちょっと心配になってしまって。私、物凄く心配性で、10年後や20年後までの計画を立てないと、今日一日の予定も立てられない人なの。あら?さっきの話、どこまで話したかしら。そうそう、原因についてでしたね。原因は、そのどれにも当てはまります。そして、そのどれにも当てはまらないのかもしれない。あの日のことは、単なるきっかけでしかなかった。だから、これまでのひとつひとつを話してもよいのだけれど、膨大な量なので長くなりそうで、後半部分は墓場まで持って行くことにもなりかねません。次回までに話を整理して、短く纏めておきましょう。ところで、あなたは明日はお忙しいのかしら?

〈録音3〉
スライを知ったのは、もう20年以上も前。それまでは、スライが存在することさえ知らなかった。...春の晴れた日の午後、私がぐったりと床に横たわっていると、少し離れたところで、高笑いする微かな声が聞こえました。その時は幻聴かなにかだと思って、気にも留めなかったのだけれど。でも今にして思えば、それが始まりでした。そして、それから私の心身が脅かされる度に、その高笑いの声が聞こえるようになってしまったの。それは幻聴ではなく、段々と明瞭となり、遂にあの夏には、部屋中に鳴り響くグランドピアノの音量にまで達して。そしていつも高笑いと高笑いの合間に、むしゃむしゃと何かを食べているような音も。最初はその音が薄気味悪くて薄気味悪くて、音が聞こえ始めてから3年間は、毎朝目覚めると、きちんと両手両足があるかと、触って確かめたほどでした。その音が聞こえると、なんとなく生臭い臭いが室内に立ち込めるような、だから、つい。そのうちに、私が部屋にいる間は、ほぼ毎日その音が聞こえてくるようになって、私にとってそれが、いつしか通俗化してしまいました。スライの存在を認めざる得ない処遇の元に、暮らさねばならなくなってしまったのです。始まりのあの日から、スライが動きを止めるまで、私の心が安まる日は、一日たりとてございませんでした。

〈録音4〉
思い出すだけでも虫唾が走る、スライには無能な部下がひとりおりました。部下はスライに忠実な犬のようでした。犬のような忠実さが、部下の無能さを克明にし、無能が故に忠実さを保守するほか、思考が働きませんでした。スライが編み出した悪行の構想を、部下は忠実に実行に移しました。スライは当初、その対象を私に絞り込んでおりましたが、私が仕事で家を開けることが頻繁になると、私の娘にまでその対象を拡げました。当時、娘は私が仕事から帰ると、私にまとわりつき、私の側を離れない。そのような子ではなかったので、もしやとの疑念が拭いされないまま、山積する仕事と家事に追われておりました。しかし、私が働かなくては、明日のお米に困ってしまう。困ればまた、待ち構えていたスライが部下に命令を下し、あの高笑いする声が聞こえる。娘に何かなかったかと訊いても、娘は話を逸らし、答えてはくれませんでした。私は身動きできない日々を送っておりました。休日に4歳だった娘と久しぶりに一緒にお風呂に入ると、娘の体はあちこちが青黒くなっていました。尋ねると娘は転んだと話しました。それとなく部下にそのことを話すと、部下は慌てながら不機嫌になり、頑としてあの子が躓いて転んだのだと言い張りました。4歳の無抵抗の女の子の苦厄を貪るスライと無能な部下に、私はその場で復讐を誓いました。目には目を、歯には歯を...私は自らの彼らに対しての憎悪の念の煮えたぎる沸点を感じ取り、小刻みな震えが止まりませんでした。私だけでは飽き足らず、子どもにまで...あの...先生にお子さんは?...もしも先生が私の立場でしたら、先生は彼らのことを許せますか?...

〈録音5〉
蝉時雨...そう、蝉時雨が聴こえなかった...塵ひとつも動かない静けさでした。そこから再び記憶が...。スライのあの食べる音は聞こえないのに、生臭い臭いが充満して、室内は薄暗く、そろそろカーテンを閉めなくてはと立ち上がろうとすると、素足に触れた床が、ヌルヌルしていました。......スライも部下も動かなくなっていました。あの時に私は解放されたのです。遂に私はスライから解放されました。でもまだ油断は出来ませんでした。スライの最期を、この目で確かめるまでは。能う限りの方法を用いて、部下の内部からスライを取り出しました。うちには先が尖ってシルバーに光るものが、30はありましたから。...思っていたよりも小さかった。長年、これに私が縛られていたのかと思うと、愕然としました。しかし、スライが動かなくなっていることを確かめても、私はスライを端から信じてはおりませんから、時折スライの様子を窺う必要性がありました。ですからスライを密閉容器に入れ、冷蔵庫のチルド室の一番奥に閉じ込めました。それから部下を、部下の残骸には少々手こずりました。和室の畳を2枚とその下にある床板を剥がし、縁の下の土を掘り、部下をそこに埋めました。部下を移動する際、それはもう重いのなんのって...。娘は部活の合宿に行っていたので、手伝ってくれる人はいませんでしたから。まあ、それでも娘が居ない間にお掃除が出来ました。床も壁も家具も丹念に磨きました。 あの様に乱れた部屋に、帰ってきた娘を迎え入れるわけにはいきませんでしたから。あの時ほど、カーペットを敷いていない室内を喜んだことはありませんでした。それに部下は無職でしたし、滅多なことでは外出もしませんでしたので、誰も部下が居ないことに気が付かなかったようです。私は毎朝毎晩、スライが動いていないかを確かめました。キッチンの調理台にスライを置き、密閉容器の蓋を開ける時は目を瞑り、それからそーっと瞼を持ち上げて。もしもスライが動き出した時の為に、必ず脇にアイスピックを用意しました。そして、アイスピックの先で突き、微動だにしないことを確かめて、再びチルド室に閉じ込めたのです。ところが一週間ほどして、スライが以前のようにリズミカルに動き出す夢を見ました。明け方に見た悪夢でした。私はベッドから飛び起き、パジャマ姿で小走りしてキッチンに向かい、冷蔵庫の中からスライを取り出しました。そして、無言で何度も何度もスライをアイスピックで刺しました。...あら?先生、今日はお顔色があまり優れないようですが...大丈夫ですか?もしかしてお身体の調子でも...このところ残暑が厳しいですからね...

〈録音6〉
ええ、あれからよくよく考えてみました。先生のご提案には、とても感謝しています。あのご提案は、私の負担を軽減しようといった、弁護人としての先生のご配慮なのでしょう?有難く思います。でも...几帳面で神経質な性格の私には、どうにも...だって先生、私はどこから見ていただいても正常ですよ。突発的な一時の感情に任せたのではありません。20年前から計画していましたし、それに沿って着々と準備も進め、仕事だって今まで有給休暇以外休んだこともありません。慎ましやかに暮らし、お陰様でこの春にようやく娘も成人し、こうして出頭したのです。私はごく普通の民間人です。私ではなく、彼らではありませんか?今こうしている間にも、何処かの国々では争いごとが起こり、民間人に向けて無差別な空爆が行われていますでしょう?罪も無い多くの無防備で無抵抗な子どもたちが、爆撃により亡くなっています。彼らです。私は正常です。私より、彼らに精神鑑定を勧めてあげてください。私はキチガイなんかじゃありません。先生はどうぞご心配なく、お仕事を...





(08/23/2014)