4/29/2013

主権




アングラ劇団員が這いつくばる
蜜蝋が塗り込められた床の上
噎せ返る甘い匂いは
誰のモノ

委ねなさいとはお可哀想に
キュッキュッ
衣擦れの音に
無粋で卑屈になった蚕が
梁に凭れてケラケラ笑う

ライトは消しますよ
霜が張り付いた体温計
中の水銀を固めて
闇を呑み込んで
息を呑む
次のステージの幕は
開いてしまった

蜜蝋が塗り込められた床の上
噎せ返る甘い匂いは
誰のモノ





Apr.29.2013

4/25/2013

有限会社 雲丹白




「コホン、えー皆様、え本日はお忙しい中、このように多数の方々にお越し頂きまして心より感謝申し上げます。また、平素よりの御愛顧につきまして、重ねて厚く御礼申し上げます。えさて、弊社は兼ねてより『反ブラック企業』の目標を掲げ、日夜邁進致してまいりました。この度、皆様のお引き立てにより、念願の支店を開店する運びとなり、何度も同じ事を繰り返して長々とお話しいたしますが、一言ご挨拶させていただきたく存じます。
え皆様ご存知の通り、創業以来、弊社の経営理念は『厚利少売』にございます。こちらもご存知の通りの初代社長、丼上(どんのうえ)まきまきが弊社を創業する以前に薄利多売営業の企業に就職し、『月400時間勤務のサービス残業ってそれなあに症状』が発症いたしましたことに端を発しております。巻いて巻いて巻きつくしても終わりなき仕事量に、丼上はとことん泣かされました。休日は英会話教室にて教師に終電に間に合わない深夜まで食い下がった、と縦100センチメートル横75センチメートル厚さ10センチメートルの社史本に痛々しく記し、後世にまで伝えられております。表紙には某前衛芸術家による肉筆作品を用い、そのたった一冊の社史本の凝りようから、丼上の創業前の屈辱感を鮮烈に窺い知ることができます。そのような経緯から弊社ではまず、企業の行く末を担う従業員の健康管理、及び労働環境に細心の注意を払っております。まかり間違って従業員が労働組合を立ち上げたり、うつ病にでもなって民事訴訟などを起こされては、弊社のイメージダウン、果ては製品のイメージダウンに繋がりかねません。なにより、お客様に直に接するスタッフの顔面が蒼白で、目の下に隈を作っているのであれば、お客様の何処に購買意欲が湧くことでありましょう。従業員あっての企業ありき、これは丼上の確固たる信念に基づく経営理念に他なりません。つきましては、弊社では商品の最低販売価格を1000万円からと設定し、最高販売価格は雲の上、国内の有力者、要人を顧客ターゲットに展開してまいった次第でございます。従業員の残業は一切認めず、仮に残業を行った従業員には、一回につき1ペナルティとして記録に残し、10ペナルティで翌月給与の5%減額措置を執り行う社則が設けられております。とはいえ商品が高価であるがゆえ、一日いっこの商品が販売できれば、会社経営として十分に成り立つ売上を達成でき、お客様もご多忙の方々が多く予約制をご利用され、接客はほんの30分、一日の労働時間の残り7時間30分は、言わば時間潰しの自由時間にございます。初代社長の丼上は、この自由時間にせっせと社史を書き上げました。最近の社内では「仕事が趣味」という無趣味の味気ない中堅社員が、ツイッターやフェイスブックなどに、『つらいツライ辛い』とボヤいておるようですが、あれはもっと仕事量を増やして欲しい、といった要望だと弊社では捉えております。やはり趣味とは、その人物に厚みや奥行きを齎す隠し味のようなものですから、勤務時間中にいかにして趣味に没頭出来るかに焦点を当てて、弊社としての今後の社員教育についての、取り組むべき課題と言えましょう。えー話は代わりますが、次に給与についてお話ししたく存じます。弊社では会長以下取締役、役員、新卒の新入社員に至るまで、年収3000万円の報酬額一律制を導入いたしております。これは世の女性たちの「結婚するなら年収3000万円以上の人がいい」というリサーチに基づく設定でありまして、ですから、弊社男性社員に婚活といった余計な苦労はさせたくない、という丼上の世才による計らいがこの数字を弾き出したのでございます。女性社員につきましても勿論同額を支給し、エステにヘアサロン通い、ブランド品を身に纏う彼女たちをそれとなくチラ見するだけで、男性社員の労働意欲も向上し得る職場環境を整えております。尤も、女性社員の集客力は男性社員に劣らず、我が社を牽引する中枢となりつつありますが。また、早々に男女分け隔てなく「育児休暇3年」を導入し、その3年間においては給与の80%を保証することと規定いたしました。そして、職場復帰につきましては、育児休暇を取る以前のポジションにて復帰してもらいます。子どもを3人もうけることで9年間の育児休暇が確保でき、且つ、生活水準もある程度維持できると、最近では大手商社やメガバンクからの転職者も後を絶ちません。有能な人材が放っておいても集まりますから、弊社の辞書には「社内競争に勝ち抜く」や「人材を振るいにかける」という言葉は存在いたしません。有難いことに、離職率は言うまでもなく0%です。近年では何処で中小企業の弊社の噂を聞きつけたのか、海外からの就職希望者も多く、現在70カ国のスタッフが、日々、暇を持て余しております。それに伴い海外の有力者、要人が、表向きは外交や出張と称して日本に赴き、弊社本店に訪問して下さる機会が増加いたしました。従来の企業であれば、海外に支店を開店するところではありますが、世界中からお客様がお越し下さいますので、その必要もなく、弊社は国内にての本店の1店舗だけで、黒字計上続きの決算を更新中にございます。しかしながら、国と国の利権上、お互いにお顔を合わせては気まずいお客様方々もいらっしゃるようで、手狭となり、この度支店を開店することと相成りました。初代社長丼上が残しました社訓、「悪どい奴ほどふっかけて、搾り取れるだけ搾り取れ」を礎にいたしました本店同様に、支店も御愛顧いただきたくお願い申し上げます。それでは以上を持ちまして簡単ではございますが、私のご挨拶とさせていただきます。では、ご質問のある方は、はい、そちらの寝癖ついた方どうぞ......はい......はい......はい......弊社の商品とは何か、というご質問ですね?なるほど、鋭いご質問です。地位、名声、有り余る財などを手に入れた方は、それらの代償として失うものも多ございます。私どもは、その失ったものを取り戻すお手伝いをさせていただいております。商品は『夢』『道徳』『博愛』の三本の矢、今年イチ押し新発売の高額商品『血』と『涙』、そして『情』と、各種取り揃えてございます...」



Apr.25.2013


4/21/2013

面影




未明から降っていた雨が上がった
雨が降ると
天竺浪人も
帰る家を思い出す

濡れた躑躅咲き乱れる丘に
郷愁を掴み取る
付き纏う面影

こうして居る間にも
道標を残しては
暮春の冷たい雨の香りを
臆病な二豎(にじゅ)に差し出そう
早く出てお行き
何も手に付かない午後



(Apr.21.2013)



4/14/2013

【Apr/14/2012)】色物による返礼





若葉が香り立つ新鮮な言葉だった。
「GDPの伸び率以上にどこまでも需要を伸ばし続けられる経済などありえない」(朝日新聞4月11日朝刊19面「ジャン・ピサニフェリー教授のコラム@パリ大学」より抜粋)
全くもって、そうだ。ありえない。需要を伸ばし続けるには、GDPの伸び率を上げなければならない。解りきった話である。
しかし、新鮮に映ったのは、「デフレ脱却」がイカレタ録音機材かと思うほどエンドレスリピートに拡声し、「GDPを伸ばし維持しよう」と、お坊っちゃま政治家が明確に発言しないからである。
お父さんが毎晩新橋のガード下に足蹴もなく通い、千鳥足をSLの前で披露するには、お父さんの毎月のおこずかいの額を上げなければならない。
それじゃ華がないからつまらないと、革張りソファに「座って10万円」の銀座高級クラブへ通い続けるには、接待であと一押しの契約まで漕ぎ着けることができる新規顧客を開拓し続けなければならない。
需要を維持するということは、そういうことである。が、お坊っちゃま政治家は、おこずかいの額を上げてと奥様に嘆願する必要性もなければ、選挙で当選までに至る固定票を集めていれば、わざわざ労力と時間を消費して、新規支持者集めに日々翻弄する必要性もないのであろうか。

「飯にしてくんな」
「ないよ」
「ない?」
「お米がないんだよ」
「なきゃ買ってくればいいじゃねーか」
「御足がないんだよ」
「御足がない...そうか、じゃ寝るか」
これはかつての庶民の愛すべきお気楽加減だ。ある落語の一節である。
江戸時代には、家族をほったらかして勤労意欲に燃える男のことを「甲斐性なし」と呼んだそうである。恐らく女たちが言い出したことであろう。せっかく夫婦になっても家に居ない、会わないのであるから「夫婦になった甲斐がない」のだ。
が、江戸時代の気楽な庶民労働力では、GDPの伸び率は上がらない。調べていないのでなんとも推測に過ぎないが、主食であるお米の需要が減少傾向に陥ったとしても、理にかなう流れであろう。
さて、前置きが長くなった。
今日はあくびが出るほど退屈な、自分語りに徹しよう。
私自身、この頃において退屈な日々を送っている。退屈している人が書くわけであるから、退屈な話は避けられない。
福島第一原発事故による汚染水漏洩も、北朝鮮による武力行使をほのめかす恫喝も、「改憲」を謳う自民党と維新の会の雑音も、どれもこれも退屈である。これらの出来事は激昂に比することであり、そして且つ激昂しているけれども、我が心は退屈である。というよりも寧ろ、ここ数年前から今日に至るまで、これ程までの刺激を受け続けることにより、何が起こっても驚かなくなっている感覚の鈍りが、「退屈」を創出している。
不謹慎であることは承知の上である。私の憤りも遂には上限を越え、迷走段階に入ったと言えよう。
憤りを緩和させるストレス発散方法は、「ショッピング」。私のようないい大人の女は、お財布の中が空になるまで、買って買って買いまくってこそ、社会貢献だと言い訳しながら逸り気を俄かに消化する。ストレスを、趣味と実益を兼ねた愉悦に替える有益なチャンスである。大人の女は高くつく。
ところが、肝心の物欲が無い。ストレスを感じなくなっているのか、末期の重症である。いますぐストレッチャーの上に横になって、救急搬送されたい。酸素マスクと点滴で処置されたい。赤信号のハチ公前スクランブル交差点を、時速120キロでビュンビュン走行していただきたい。中井貴一似の救命士が私の顔を覗き込み中井貴一似の滑舌で「もう大丈夫ですよ」、と優しく語りかけてもらいたい。
「私たちの国の民主主義」たるいい加減な政策に辟易しているのだ。民意が待てど暮らせど政府まで届かない。私と思いを同じにしている方も多かろう。ヘラヘラとしたせせら笑いが、意識するとも無く口元を襲う。やはり重症だ。もはや知らぬ間に私の中に悟り菌が入り込み、発症に至ったのか。抗生剤だ抗生剤だ、早く早く。いや、私の物欲は強固でしたたかであるから、悟り菌への免疫力がある、はずである。第一、このようなことを言うと、何処かの御前様に叱られる。が、需要に寄与できぬもどかしさ。社会人のひとりとして、忸怩たる思いが募る。どうにかして是が非でも、治療せねばならぬ。
「紅茶キノコ」を飲むべきか...。
いいえ、ダメよ、あんな得体の知れないものを飲んじゃ。それにあれは「キノコもどきを浸した紅茶」であって、名前だけを聞くと「キノコ」が主。本来は紅茶を飲むのだから「キノコ紅茶」でなくちゃネ。「午後の紅茶」であり、「紅茶の午後」は飲みたくても飲めないぞ。ああ、誰か私にAEDうぉおおぉおぉおぉぉぉ...。

今月に入り非正規雇用の仕事に就いた。私のGDPの伸び率が、チョッピリ上がったというわけさ。
が、末期症状のあくびをしている間に、ついうっかり重大なミスを犯した。予約し忘れていたのだ。だから私の病が治らないのだ。問い合わせの回答は「次回の日時は未定」だという。だが、今度こそと次回の予約を入れた。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という村上春樹氏の処方箋を。
あれ?しっかり物欲あるじゃん...。




4/07/2013

【Apr/07/2014】遊牧民の柴笛が聴こえる




どう‐とく【道徳】

①人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。夏目漱石、断片「―は習慣だ。強者の都合よきものが―の形にあらはれる」 →道徳性。
②老子の説いた恬淡てんたん虚無の学。もっぱら道と徳とを説くからいう。
③小・中学校における指導の一領域。 →道徳教育。
(上記 広辞苑電子版より引用)


冒頭から「道徳」という堅苦しいお題を掲げてみる。
一般的に「道徳」とは①を指すであろうか。
「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体であり、法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理でもあり、今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる」のである。ああ、解りやすい、のか。
「ある社会で」の「ある社会」とは「ある社会」であるから、「どの社会」にも当てはまる。
それを大前提に仮定すると、「ある社会」における「ある道徳」が如何なる社会、狭義を超えれば、如何なる時代にも「道徳」は存在し得る。
そして、「その成員」の「そのある社会」に対する、あるいは「ある社会の成員相互間の行為のある社会においての善悪を判断する基準」として、「ある社会の一般に承認されている規範」の「ある社会の総体」である。
よって、「ある社会」にとって善悪を判断する基準において最良の「道徳観」や「道徳心」が「ある社会」においての一般として培われることになる。
ここでいう「ある社会」は多数に存在し得るからこそ「ある社会」として仮定される。
このことを踏まえると、「幾多のある社会」においての「幾多の道徳」が存在してしまうのだ。
漱石の「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらはれる」を引用したのは非常に妥当だと感じ入るものがある。
「ある社会」の「善悪を判断する基準」が違えば、「道徳」の根本が覆されてしまう。
そして道徳は「習慣」になっている個人の内面的な原理なのである。個人の内面的原理に至る習慣になるまでの道徳を形成するまでには、ある程度の過程が必要であり、その過程の道筋を教示するのが強者であるならば、強者の変化や交代により「道徳」も変化しなければ、話の辻褄が合うまい。強者とは、社会的強者、すなわち権力を持つ者であろう。
もう少し噛み砕いて話そう。私は小学校の歴史(日本史)の授業で、「斬り捨て御免」を習うと同時に、道徳の授業で「命の尊さ」について習った。この矛盾は、私たちの国に於ける「ある社会」が変化したからである。現代にて「斬り捨て御免」を行えば、それこそ国際社会からの非難が集中する的となろう。
が、小学校の歴史の授業では、「斬り捨て御免は命の尊さに反した由々しき怪しからぬ行為だ」と、道徳と抱き合わせで教えないのである。これも矛盾しているが、その教え方が「強者の都合のよきもの」であるならば合点がいく。

道徳、モラルと言った方が響くのかもしれない。そのモラルの乱れは強弱があるとしても、今に始まったことではない。犯罪は後を絶つことがなく、モラルの度を越した崩壊をあえて好む(この表現が適切だとは思わないが)、あるいは集団心理で流れる人々が、いつの時代にもいた事は認めなくてはならないが、だからといって、それは仕方のないことだと片付けることではない。
ここ数年を振り返っても、「虐待」「いじめ」「差別」。
少々強引な考え方ではあるが、「ある社会に於いてのモラルという習慣の促進手段が、強者に都合よく構成され流布される」のであれば、「モラルという習慣は、強者に都合よく崩壊される」ことも可能である。大概の場合、創ることが可能であれば壊すことも可能であるからだ。しかも壊すことの方が、容易い。そしてとりわけ強者にとって都合の悪いモラルは、モラルではなく障壁に等しい。
この頃のモラル崩壊に関する事件や事例を以て察するに、戦後から平成に至って当然とされてきたモラルのあり方が、異状に移りつつあるように感じざるを得ない。
「子どもを救おう」というプラカードを掲げた脱原発デモが誹謗中傷される一方で、「朝鮮人を殺せ」というプラカードを掲げたデモを擁護するような動きが同時期に起きていることを、もしも傍目に見れば、実に滑稽であろう。
私はこの個人の内面的原理が、強者にとって都合のよいモラル破壊に利用されはしないか、と危惧している。
社会的強者の、口ごもり尾を引く永田町戯曲を聴くより、私たちが住む国のモラルが、どこを軸にしようとしているのかを、社会が法律と照らし合わせて提示しているのでなかろうか。私たちの国の道徳心が揺らいでいることは明白である。また、「改憲」を謳う自民党とって、現在の日本国憲法の障壁とは何か。障壁を取り払ったその後に、用意されているものは何か。もとより強者は景仰に値する人物なのかを、100日過ぎた今、これらを照査して見極める時期に入ったと言えよう。
「個人の内面的な原理」は「人のふみ行う道」を踏み外すことではない。それこそが道徳であり、社会的強者の道徳観が、社会に形となって露呈されるのであろう。
また、経済成長に水をさすようで恐縮するが、道徳観が揺らぎ治安の悪い国、道徳観が共有できぬ国への海外からの投資は維持できないことも、これもまた歴史という過去のデータにより確信的であるのだ。

ああ、「道徳」とはなんと解りづらいことよ。と、嵐が去った澄みきった日曜日の青に、一個人の想念を重ねる。