4/07/2013

【Apr/07/2014】遊牧民の柴笛が聴こえる




どう‐とく【道徳】

①人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。夏目漱石、断片「―は習慣だ。強者の都合よきものが―の形にあらはれる」 →道徳性。
②老子の説いた恬淡てんたん虚無の学。もっぱら道と徳とを説くからいう。
③小・中学校における指導の一領域。 →道徳教育。
(上記 広辞苑電子版より引用)


冒頭から「道徳」という堅苦しいお題を掲げてみる。
一般的に「道徳」とは①を指すであろうか。
「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体であり、法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理でもあり、今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる」のである。ああ、解りやすい、のか。
「ある社会で」の「ある社会」とは「ある社会」であるから、「どの社会」にも当てはまる。
それを大前提に仮定すると、「ある社会」における「ある道徳」が如何なる社会、狭義を超えれば、如何なる時代にも「道徳」は存在し得る。
そして、「その成員」の「そのある社会」に対する、あるいは「ある社会の成員相互間の行為のある社会においての善悪を判断する基準」として、「ある社会の一般に承認されている規範」の「ある社会の総体」である。
よって、「ある社会」にとって善悪を判断する基準において最良の「道徳観」や「道徳心」が「ある社会」においての一般として培われることになる。
ここでいう「ある社会」は多数に存在し得るからこそ「ある社会」として仮定される。
このことを踏まえると、「幾多のある社会」においての「幾多の道徳」が存在してしまうのだ。
漱石の「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらはれる」を引用したのは非常に妥当だと感じ入るものがある。
「ある社会」の「善悪を判断する基準」が違えば、「道徳」の根本が覆されてしまう。
そして道徳は「習慣」になっている個人の内面的な原理なのである。個人の内面的原理に至る習慣になるまでの道徳を形成するまでには、ある程度の過程が必要であり、その過程の道筋を教示するのが強者であるならば、強者の変化や交代により「道徳」も変化しなければ、話の辻褄が合うまい。強者とは、社会的強者、すなわち権力を持つ者であろう。
もう少し噛み砕いて話そう。私は小学校の歴史(日本史)の授業で、「斬り捨て御免」を習うと同時に、道徳の授業で「命の尊さ」について習った。この矛盾は、私たちの国に於ける「ある社会」が変化したからである。現代にて「斬り捨て御免」を行えば、それこそ国際社会からの非難が集中する的となろう。
が、小学校の歴史の授業では、「斬り捨て御免は命の尊さに反した由々しき怪しからぬ行為だ」と、道徳と抱き合わせで教えないのである。これも矛盾しているが、その教え方が「強者の都合のよきもの」であるならば合点がいく。

道徳、モラルと言った方が響くのかもしれない。そのモラルの乱れは強弱があるとしても、今に始まったことではない。犯罪は後を絶つことがなく、モラルの度を越した崩壊をあえて好む(この表現が適切だとは思わないが)、あるいは集団心理で流れる人々が、いつの時代にもいた事は認めなくてはならないが、だからといって、それは仕方のないことだと片付けることではない。
ここ数年を振り返っても、「虐待」「いじめ」「差別」。
少々強引な考え方ではあるが、「ある社会に於いてのモラルという習慣の促進手段が、強者に都合よく構成され流布される」のであれば、「モラルという習慣は、強者に都合よく崩壊される」ことも可能である。大概の場合、創ることが可能であれば壊すことも可能であるからだ。しかも壊すことの方が、容易い。そしてとりわけ強者にとって都合の悪いモラルは、モラルではなく障壁に等しい。
この頃のモラル崩壊に関する事件や事例を以て察するに、戦後から平成に至って当然とされてきたモラルのあり方が、異状に移りつつあるように感じざるを得ない。
「子どもを救おう」というプラカードを掲げた脱原発デモが誹謗中傷される一方で、「朝鮮人を殺せ」というプラカードを掲げたデモを擁護するような動きが同時期に起きていることを、もしも傍目に見れば、実に滑稽であろう。
私はこの個人の内面的原理が、強者にとって都合のよいモラル破壊に利用されはしないか、と危惧している。
社会的強者の、口ごもり尾を引く永田町戯曲を聴くより、私たちが住む国のモラルが、どこを軸にしようとしているのかを、社会が法律と照らし合わせて提示しているのでなかろうか。私たちの国の道徳心が揺らいでいることは明白である。また、「改憲」を謳う自民党とって、現在の日本国憲法の障壁とは何か。障壁を取り払ったその後に、用意されているものは何か。もとより強者は景仰に値する人物なのかを、100日過ぎた今、これらを照査して見極める時期に入ったと言えよう。
「個人の内面的な原理」は「人のふみ行う道」を踏み外すことではない。それこそが道徳であり、社会的強者の道徳観が、社会に形となって露呈されるのであろう。
また、経済成長に水をさすようで恐縮するが、道徳観が揺らぎ治安の悪い国、道徳観が共有できぬ国への海外からの投資は維持できないことも、これもまた歴史という過去のデータにより確信的であるのだ。

ああ、「道徳」とはなんと解りづらいことよ。と、嵐が去った澄みきった日曜日の青に、一個人の想念を重ねる。













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