4/06/2015

草の茵に座るるは




里子に出された母は里親のもとで数年暮らした後、高校生となって詩を書き始めた。その詩はどれもこれも綺麗事を一切排除した、言わば私的な心情を剥き出しにし、読めば読むほど私という読者を陰鬱へと導いてくれた。実際、その詩の数々が書かれた小さい雑記帳は、50年以上書棚の隅に隠すように保管されてあったので、それまでその雑記帳に書き連ねた詩の読者は、筆者自身の母以外は誰一人も居なかったのである。
詩は母と私の祖父母にあたる里親との隔たりを、日常生活の風景を通して描かれていた。しかし、祖父母との生活が不満でいたたまれない気持ちになったのではなく、母は自分の置かれた境遇を通して、その境遇に至るまでの自分の運命をまるで呪っているかのような叫び声にして書いた。推考するに何か翻訳された海外の書物を読んで影響されたのであろう、表現が非常に大袈裟であり、悪く言うとやや芝居がかってさえいるように感じた。母はジャン・コクトーの詩を「あれの何がいいのかわからない」と言い放ったことがある。コクトーの詩を読んだことがあるから言えることで、且つ母にとっての目の上のコブであったに違いない。
が、娘の私から見ても母の生い立ちには同情すること然り。これは私と母との間にも隔たりがあり、どう転んでもその溝はこれからも埋めようにも埋められそうにないからであって、母を客観的な対象として捉えてしまわざるを得ないからである。
これから書こうとしていることは、私が小学生だった時分から数十年かけて、少しずつ少しずつ母と母の周囲の人々から引き出しては聞いた話だ。私の記憶が曖昧にならないうちに記しておこうと思ったのである。以前にも何処かで記したことがあったが、何処へ記したのかわからなくなってしまった。何処へ埋れてしまったか、或いは嫌気がさして既に捨ててしまったのかもしれない。


彼女は内科医で開業医の父と三味線の名取の母の間に生まれた第2子で、上に数歳離れた兄が居た。病気がちだった母に代わり、家にはお手伝いさんが居た。母は自宅で三味線を教え、数名の若いお嬢さんのお弟子さんも居たらしい。母が長火鉢の前で、煙管で煙草を吸って居た光景が、彼女にとって鮮明に蘇る唯一の母の記憶だという。その母は彼女が3歳の時に病気で亡くなった。が、彼女が母の病名や死因については語ったことはない。彼女の父は直ぐに後妻を娶った。お手伝いさんに幼い子どもたちや家庭を任せるには負担が大き過ぎたらしい。そして、彼女にとって4歳年下の妹が生まれた。家は裕福で、戦前のお正月には新調した着物を着て、お年玉として父から50円貰ったそうである。が、父の職業柄からだろう、家族で旅行へ出掛けたり、行楽に興じたという話はない。太平洋戦争が始まり、学童疎開で彼女は茨城の海沿いへと向かった。彼女の父は戦時中に東京下町の町医者として多忙が重なり、よく言われる「医者の不養生」で亡くなったらしい。立派な口髭を蓄えた精悍な人だったという。が、彼女から父が疾患していた病名や直接の死因について語られたことはない。敗戦の年の3月10日、東京大空襲により彼女の生家は全焼した。疎開先から帰京すると家が無くなったばかりか、彼女の育ての母と幼い妹の居場所さえもわからない。彼女は忽ちのうちに孤児になった。11歳の時のことである。その後、どのような経緯があったかは定かではないが、下落合に居る親戚に引き取られた。兄もやはり別の親戚宅に身を寄せ、中学を卒業すると田端にあった医療器具を製造する町工場に住み込みで就職し、メスやカンシを作る職人を目指した。
その後、彼女は親戚中をたらい回しにされ最後は行き場を失い、今で言う「児童養護施設」に入った。戦後暫く、両親を失った子どもが入る施設を「孤児院」と呼んだ。登録していた戸籍などの書類が空襲で焼失してしまい、再登録が必要となった際、これもどのような経緯があったかは定かではないが、彼女は妹の名前と年齢を用いた。そして後に、彼女は中学2年生として里親のもとで里子として暮らすようになる。里子になることを選んだ理由は「学校(高校)へ行きたかった」。当時、孤児院で暮らす子どもは義務教育を終えると支援が打ち切られ、自立を強いられた故、皆、進学せずに働いたという。ましてや中卒の女子ともなると、就くことができる仕事が限られていた。そして彼女は文学が好きだった。それ故、彼女は高校へ進学したかったのである。これは私の推測に過ぎないが、妹の名前と年齢を用いることにより、義務教育終了の時期が遅れる、遅れると社会に出る時期が遅れるから、ほんの僅かな時間だったとしても彼女は自分が流されてゆく運命に反抗したのではないのか。
子どもが居なかった地方出身者の里親は、まだ長閑さが多分に残っていたという東京の郊外にて借家住まいだったが、里子が来たと張り切って、それまで住んでいた借家の近所に小さい家を新築した。近所を選んだのは里親が住み慣れた土地だったということもあろうが、なにより彼女が転校しなくて済むようにといった配慮からだったという。そしてその一室を彼女の部屋とした。定年まで地方公務員だった里親の父は、知人から譲ってもらったいう何処かの書斎にでもありそうな重厚な佇まいの、広い天板が乗せられた机を彼女の部屋に運んだ。全体を布で装丁し、表紙や背表紙に印刷されたタイトルは金で箔押しされ、その上を丁寧にパラフィン紙で包んでは一冊ずつケースに収められた世界文学全集も揃えた。彼女にとって3人目の母となった里親の元看護婦の母は、洋裁を習得していたので彼女の為にせっせと服を作った。彼女に再び平穏が訪れた。中学を卒業すると、願いが叶って高校の普通科へと進学することができた。
進学とともに、中学で仲が良かった友人たちとは別の学校へ通う。と、友人たちとそれまでのような密な付き合いができなくなった。SNSやメールも無ければ、固定電話ですら一般家庭に普及していない時代である。彼女から高校時代のいわゆる「楽しかった思い出話」は「学校外」での出来事についてばかりだった。これも憶測に過ぎないが、思い描いていた高校生活と現実との間に、ズレが生じていたのかもしれない。とにかく彼女は詩のサークルに入る。そこに自分の居場所を見つけたのかどうかはわからないが、とにかく彼女は詩を書き始めた。サークルを牽引する師にも恵まれ、ざらついた質感の紙に活版印刷された同人誌も残した。
里親は言ったそうだ。「大学へ行きたければ行ってもよい」「籍を入れて養女にならないか」彼女はどちらも断った。大学へ進学すると里親の家計に負担がかかってしまう。籍を入れて養女となったとしても、いずれ嫁いでしまうから、と。しかし、どちらも彼女が望んでいた話だった。が、彼女は里親に遠慮した。当時、女は結婚して専業主婦になるのが一般的であったことと、里親の母が看護婦として病院にて従事しては苦労したことから、できれば娘には苦労のない平凡な道へ進んでほしいという親としての希望もあったらしい。しかし、自分の気持ちとは真逆の母の気持ちを優先したことが後年に仇となり、そしてそのどちらも離婚後の彼女の後悔に繋がった。
話を戻せば、彼女は里親に遠慮した頃、雑記帳に多くの詩を残した。その詩は、孤独と闘う幼女さながら。彼女は生い立ちによる過不足だった愛情を里親に過剰に求めていたように見受けられた。そして成長を拒んだのだと思う。子どもでいれば、いつまでも甘えたい時に親に甘えることができる。甘えを裏返して偽親子の家庭を忌み記したのだ。
高校を卒業すると、彼女は電気メーカーでOLとして働いた。もう詩は書かなくなった。僅かな食費を家に入れると、残りの給与は自由に使うことができた。相変わらずの活字中毒ではあったようだが、映画、特に洋画を好んでよく鑑賞していたらしい。オーダーで靴を作り、高価な服を買った。ボーイフレンドに誘われ、銀座のバーでカクテルを飲んだ。そのボーイフレンドからは求婚されたが、若い娘に強い酒を勧めて酔わせるような男はけしからんと、里親の父の反対により破談となった。
そして彼女は、里親のもとで暮らし始めてから結婚に至るまで、上げ膳据え膳が日常であったという。それは彼女自身が里親の母にそれを望み、里子の娘の生い立ちを不憫に思った母もそれに応えた。そして数年が過ぎ、ほとんどの家事をまともに出来ぬまま縁談が持ち上がり、嫁ぐ運びとなった。結婚相手は里親の父の従兄弟の長男。彼女の辛うじての得意料理は、焼き魚と菜のお浸し。また、結婚が決まったことを機に、妹の名前と年齢から実名と実年齢に戸籍を改めた。これについての経緯は、彼女だけではなく、身内である彼女の周囲も語らなかった。ただひとつわかっていることは、「そうしたほうがいいでしょう、ということになり、そのようにした」という経緯だけである。里親も結婚相手も彼女から打ち明けられた話に、さぞかし驚いたことであろう。だが皆は彼女を赦した。赦したからこそ結婚までに至ったのである。
結婚してから1年後、彼女は私を産んだ。里親の父母と彼女の夫の注目は、彼女と私とに分散された。純粋に彼女だけに注目が集まることは二度と無かった。
彼女は私が落胆するような出来事が起こると、決まって心から喜んでいるかような素振りを見せた。彼女にとっての敵は娘の私。彼女と私の軋轢は長い年月に渡った。彼女はどのような場合でも誰に対してでも「謝る」という行いは無かった。「謝る」という行為の代わりに、不条理な理屈を繰り広げた。同時に「感謝」も無かった。これは受け取ることが当然という彼女自身の前提に基づいたことであろう。

さて、私の母の生い立ちを時系列に沿って切り張りした中で、どのようしても埋まらぬ空白の数年間がある。疎開中から里子となるまでの期間である。数年間のできごとが「茨城へ行き帰京し親戚宅を転々とし施設に入った」。それとなく何度か尋ねてはみたが、この話については、それ以上母は絶対に口を開かなかった。史実は正確には誰も知り得ないのかもしれない。だが、この期間にもしも違う道を歩んでいれば、母はもう少しは満たされていたのかもしれないと思う。いつしか私は母に同情を覚えた。そして母も同情されることを望んだ。が、その望むことそのものに更に深い同情と、取り止めの無い悲愴感を帯びた怒りを覚えた。この怒りとは、同情はしたものの、母として毅然とした態度を保って欲しかった私は、母の同情を求める気持ちに素直に共感出来なかったことに依拠する。だが、私がいくら同情したとて、今更母の生い立ちを変えることは出来ない。私が出来ることといえば、インターネット上の片隅にブログを残すことぐらいでなのである。
読者は今のところ、筆者である私ひとり。いつの日か私の娘の眼に触れることを願いつつ、今夜は筆を置く。