12/14/2013

粛清



一人目が死んだ
二人目も殺された
三人目からは数えない







12/03/2013

文字



貴方が拳を振り上げ
私が作ろうとしている言葉を
跡形もなく
悉く壊していった
悲しくも私は
貴方への言葉のパーツを
もう持ち合わせてはいない

貴方が困り
狼狽えても
哀しくも私の
貴方への「優」の字は
「人」と「憂」に割れたまま乾く

そして私は
夜の星とのお喋りに忙しく
時に流れ星が
地にぶつからないように
手を差し伸べる
星は拳を振り上げはしないから
私の「心」の文字が
彼の言葉を
受け止める






11/24/2013

「特定秘密保護法案」



「特定秘密保護法案」
こちらの法案は平成25年11月26日に衆院を通過予定だという。
立案者は何者だ。
いや、集団である可能性もあり得る。
一体、どこの動物園の猿であろうか。
そして猿への特定秘密保護法案原案及び修正案手数料は、何枚綴りの日帰り温泉入浴券であろうか。
推考するに野生の猿ではないであろう。
日々、飢えと闘うサバイバル精神を体現している野生の猿たちは、たかが温泉への入湯ぐらいで、容易く気持ちが揺れ動いたりはしない。
また、入浴後は更に空腹感を覚えるからして、朝夕食付きのせめて1泊2日の箱根、もしくは2泊3日の草津、贅沢を言えば往復飛行機を利用しての3泊4日の別府か登別でも、首を縦に振るか怪しいものだ。
チープでプアでシャビーな日帰り温泉入浴券ごときで釣られるとは、どこの動物園の猿であろうか。
動物園で産声をあげ動物園で看取られるといった、代々の血脈を受け継ぐ世襲猿に違いない。
が、入浴券1枚にしては責任が重すぎる。
なにせ日本国民の安全保障と民主性の根幹に関わる重要事項である。
2枚セットが常識として社会では暗黙の了解ではあるが、動物園の猿は甘やかされて飼育され価値観が歪曲しているであろうから、交渉という名の圧力を掛けて猿だけにゴリ押しで3枚にしてもらったという巷の説が妥当である。
1枚は自分用、他2枚は賛同に転じ協力した猿たちへの謝礼用に他ならない。
そもそも「何が秘密かは秘密」などという粗末で粗雑で稚拙な法律は、IQが高いであろう野生の猿が考案する領域ではあるまい。
食糧を探し求めて野山を駆け巡る野生の猿は、危険を伴う行動範囲が広域に渡り、自ずと知恵が蓄積され、IQが高くなることは至極当然のことであろう。
上記のことを加味しても「特定秘密保護法案」の立案者は温泉マニアの猿以外に該当する動物はいない。
また、猿は猿でも消去法を用いて、より一層のピンポイントに絞り込むとして、動物園の猿以外に考える余地は微細もない。
如何なる方法を駆使してでも、なんとしてもその猿が生息する動物園を探し出すべきだ。
園長を筆頭に飼育係に至るまでの人事を刷新し、猿の性根を叩き直さねばならぬ。
「特定秘密保護法案」が国会で通過し施行されてからでは、立案した猿の所在地は国家機密として扱われ、これから60年、いや、未来永劫に渡り情報開示されることはないであろう。
善良な市民が焦るのも無理はない。
その後に控える「集団的自衛権行使」という人命に関与する法案へと繋がる「特定秘密保護法案」は、日帰り温泉入浴券3枚綴りによって作成されたとあらば、記紀神話より悠久と流れる日本国の歴史に傷が付くことは免れない。
デモクラシーを差し置いて、入浴券3枚に目が眩むとは何たる失態であろう。
また、我が国の国民は、開国以来諸外国の外交筋によって、猿猿、と陰口を囁かれ、不本意である意識を口に出さずひた隠しにすることを美徳としてきたが、国益に作用する国家の秘密に関わる法案が、実は動物園の本物の猿の手によるものと漏洩したならば、これこそ関係国との信頼を構築する際に大きな壁が立ちはだかることは必至であり、国家間における痛ましい有事が起こってからでは後の祭りである。
反省だけなら、猿でもできる。

11242013




11/10/2013

寺済廣町北越川州武


           

扉が閉まっていると、開けて中を見たくなる心境に堕ちることは、至ってマトモな心理状態であろう。
 
「開かずの扉」
 
開けずにはいられない欲求と衝動と、それらを抑制する理性との鬩ぎ合い。どうしても開けて欲しい扉には「この扉開けるべからず」とヤレ紙に走り書きして張り紙することで、大勢の人々を扉の内側まで誘導出来るであろう。
浅草寺の観音菩薩像は、何百回何千回御参りしても、そのお姿を拝むことは出来ない。昔からの決め事である。観音様は簾で仕切られたいわゆる「開かずの間」に佇立なさっていらっしゃる。よって私たちは、開かずの間に引き寄せられるように雷門をくぐり抜け、人形焼が焼ける江戸の郷愁感に満ち溢れる香しい甘い空気を振り切って、せっせと足早に仲見世通りを直進するのである。
 
厨子という仏具を買った。高さ約12cm、観音開き扉の四角くて小さい木製の箱。簡素な作りではあるが、骨董好きであれば本物だと一目でわかる。家に帰ってから調べ、やっと厨子という名称を記憶の地の底から引っ張り出して思い出した代物である。仏さまを安置する入れ物。お仏壇も厨子だというから、どうやら大きさではなく内容によるらしい。
骨董店では厨子の扉が閉められていたから、初老の品のいい店の御主人に、これは何ですか、と些か不躾な疑問を投げ掛けてしまった。要するに、扉を開けてみたくて仕方ないのである。お店の御主人が何処ぞの堅物であれば、これは厨子です、で会話が途切れたであろうものの、流石年の功であろう、これはですね、と話しながら扉の縁にスッと指先が伸びる。
そーそー、それそれ。
さっきからうずうずしていたの。
尤も、店主はその質問を待ち構えていたのであろうが。ゴクリと固唾を呑みながら、封印が解かれる如く静かに見守りながら、店主の講釈に耳を傾ける。曰く、江戸時代のもので、宮大工が一点一点作り、寺院が檀家に配布したものだという。なるほど、どうりで長い年月を経ても、観音開きの扉の建て付けに一分の狂いなく、底板のかたつきもなく。扉の中には緋色の布で裏打ちしてある古びた一枚の木版刷りが、内壁の三面に沿うように二ヶ所に折り目を付け、コの字型に置かれている。厨子はこの一枚に合わせて作られたのである。朱肉の色も鮮明な、風格ある刻印も押してある。そして画面の正面奥に、どなたかがいらっしゃる。だが、小さ過ぎて肝心のそのお方が、釈迦なのか菩薩なのか分からない。手前にもそれぞれ一対の翼を背負うお二人。よく見ると最下部に、これまた小さい文字で「寺済廣町北越川州武」とある。「ぶしゅうかわごえきたまちこうざいじ」と読む。無論、江戸時代の横書きは右から左へ読む。列記とした仏具であり、ましてや中に仏さまがいらっしゃる。どなたか分からずとも、我が家へお連れしないわけにはゆかぬ。

 自宅へ戻り、うやうやしく厨子の扉を開ける。快感である、且つ爽快である。なんて心が弾むのであろう。
ルーペを用いて中を覗き込むと…「お不動さん」で信仰を集める「不動明王」ではないか!手前のお二人は、向かって右側は一般的な天狗、左側は鼻先が尖っている木の葉天狗であった。
こうなると「廣済寺」についての歴史や背景を調べたくなるのは、至ってマトモな心境である。ざっくりと調べたが説明すると長くなる故、長文を苦手とする私の気が滅入る。もしもご興味があるのであれば「川越 広済寺」で検索すると、色々とヒットするからお試しいただきたい。
武州とは武蔵の国即ち関東、埼玉県川越市の喜多町にある広済寺。宗派は禅宗の曹洞宗で、それは私が生まれた時の生まれた家の宗派である。大本山は福井県にある永平寺と横浜市にある総持寺。
後に両親が離婚して私は母に引き取られ、母の実家は神道で、当の私の信仰は宙ぶらりん。
しかし、幼少期に身内の祥月命日には僧侶が般若心経を誦している声を背後から聴き、両親や祖母に伴って事あるごとにお寺へ連れて行かれたことも手伝ってか曹洞宗には馴染みが深く、厨子から滲む落ち着いた佇まいは自然としっくりくる。直線で構成された形で、屋根にあたる部分は、一枚板に中心の頂から四方に緩やかな傾斜を設け、その傾斜の延長する流れが、内部に蟄居なさっている尊いお方を軒下から全体をやんわりと包み込みお守りしている感じが伝わってくる。色はやや赤みがかった焦げ茶で、150年、もしくはそれ以上の時に晒され、変色したものと思われる。
こうなると、この厨子に纏わる詳細な背景を知りたくなり、広済寺に電話をかけてみた。まだ若いお声のご住職が仰るには、考えられることは、本堂を建て替えた際に携わった方々へ、そのお礼として配布したというのが有力説ではあるが、江戸時代といえばそれ程裕福ではなかったであろうから、元々お寺で祀られていたが、本堂を建て替えた際に何らかの理由で流出したものである可能性もあり得る、と。また現在、不動明王を単独で祀ることはない、とも仰った。宗派によるものであろう。
ご住職は住職になられてからまだ日が浅く、昔のことについて先代がご健在であるからいずれにせよ尋ねて、私まで連絡して下さるとのことであった。実に有難いことである。

だがしかし、今、私に幾つかの問題が生じている。上記で、厨子を買った、と書いた。不動明王は、曹洞宗ではお釈迦さまが煩悩を焼き尽くしている内証の姿とされている。ましてや、仏さまである不動明王を「買った」とは言えない。よって、厨子を買った、としか言いようがないのである。
だがそうなると、厨子を購入したら不動明王が添付されていたことになりかねない。言うに及ばず、厨子の主は不動明王であるから、これもまた釈然としない。しかし、これも言うに及ばず、私が不動明王を我が家へお連れした最大の理由は、仏さまであろうお方がオークションにかけられ、流通経済の真っ只中に置かれていることに歯止めをかけたかったからであり、それを達成するにはそれなりの代価が必要であったのである。際たる矛盾。
また私は、あれが欲しい、これが欲しい、あなたが欲しいと煩悩まみれ。私とは煩悩が食べて寝て泣き笑い服を着て歩いているようなもので、この細やかな楽しみともいえる欲望という名の果実を焼き尽くされては、どことなく淋しい。
よって、厨子の扉を気軽に開けることが出来なくなってしまった。この畏怖は、仏教に対する信仰心の芽生えの顕れであろうか。

骨董店では、厨子の台座として黒い硯を裏返して展示され、硯をサービスで戴いた。さて、長話はこれぐらいにして、私も硯に似た黒のiPhoneを今回はそろそろ伏せることとしよう。それにしてもiPhoneは長文のタイピングが面倒で不向きで、やはりMacBook Airを購入するべきであろうか。
「不動明王」を唐から日本に伝えたのは「弘法は筆を選ばず」の弘法大師こと、空海である。




                                                  11102013

9/23/2013

るてんてんてん




るてんてんてん
るるてんてん

やれ転がれと紙切れ数え
やれ転がせと叩く土
るてんてんてん
るるてんてん

さて働けどあぶく銭
さて働けと集る蛇
るてんてんてん
るるてんてん

今日のお宿は谷の底
明日のお宿は地獄門
るてんてんてん
るるてんてん

さあこの先は金次第
さあ味方も踏み潰し
るてんてんてん
るるてんてん

流れ着いたは永田町
るてんてんてん
るるてんてん


                                            09232013

9/21/2013

中秋



斜陽差し込む休息の午後
鱗粉がぼんやりとした蝶が
パタパタと音を立てる
無作為に点を描き

グミの木の枝先は
花を実を付けてはいない
蝶は開いた空に背を向けて
探し物

月を見たか
星を見たか
人を見たか

蝶の姿を追う秋風が
夕刻へと
一筋流れてゆきました


                                      09212013


9/07/2013

2020 トーキョー オリンピック




「今年2020年は、東京オリンピック開催の年。うわーっ、楽しみだなあー。ワックワクだなあー。7年前の五輪招致活動を思い出すよなあー。あの時は安倍元首相が、アメリカの対シリア軍事介入問題に緊迫したG20を、たった一日でぶん投げて、ブエノスアイレス入りしたんだったっけ、確か。まあ、本来G20は経済についての世界的会合だから、アメリカやフランスの軍事介入のことなんてどーでもよかったんだね、安倍さんにとっては。きっと武力と経済を天秤にかけたら人道支援の力点がウザいって思ったんだよ。ボクじゃないよボクじゃないよまさか、安倍さんが、だよ。あくまでも推測にすぎないけどね。でもって五輪招致に向けての口説き文句が「7年後は安全、福島と東京は250キロも離れている」ってさ、凄いぜよ、未来の時間と地理的距離をごちゃ混ぜにしてさ。IOC委員も、よくこの口説き文句を信じたもんさ、みんな素直ないい人たちだったんだね。ボクはそーは思わなかったけど。だってあの時はまだフクイチ原子炉の冷却に追われていたし、汚染水は地下水から海へ、汚染水貯蔵タンクからは地面に漏れ出してたし、7年後のことなんて空の上の雲を摑むような話だと思ったけどね。250キロしか離れてないしね、250キロしかね。ボクの友達がアメリカで「ほんのすぐそこだ」って言われて距離を訊いたら、200マイル先だったことがあったんだって。大陸だからね。だからフクイチまではボクが乗ってるスポーツタイプの4WDの車で、東京からほんの2時間の距離さ。あ、この話は警察の交通課には内緒だよ。ボクはこれでも、周りには安全運転で通っているからね。原発と一緒にしないで欲しいよなあ。でもさ、2020年オリンピックが東京に決定した後が大変だったよねー。フクイチの汚染水はどんどん海に流れ出して、太平洋で獲れる魚介類は、食卓から消えちゃった。そのあとアトランティックサーモンまでね。ショックだったなー、ボク、サーモンのムニエルは好物だったから。食べ物の恨みは恐ろしいって、みんなは何で恨んでるんだろ。それから忘れもしない、あんなことさえなけりゃねぇ...ま、でも、よくオリンピックの開催まで漕ぎ着けたと思うよ、あんなことがあった後にさ。猪瀬元都知事が随分と違う意味で頑張っちゃったからね。東京オリンピック開催が決まった次の年だったかな。南海トラフ地震があって、東京の沿岸部はぜーんぶ津波に襲われて持っていかれちゃったでしょ。更地になったからオリンピック用の施設の建設は割とスムーズだったしね。計画の変更で神宮外苑は手付かずで守られたしさ。なんたって地震の影響によりフクイチの原子炉が突然爆発しちゃったから、漏れ出している汚染水の心配も一緒に吹き飛んじゃったよねー。もっと凄いことに爆発により地球の軌道に変化が起きたしさ。安倍さんや猪瀬さんは、よほど幸運に恵まれた人たちだったんだね。ボクは彼らにあやかりたいほどさ。あー楽しみだなあー。そーそー、新国立競技場は冷房完備だけど、いつも屋内の最高温度をマイナス20度に保てるってもっぱらの噂だよ。これで選手も暑さでバテることがなくていいよね。東京の夏は、そりゃあ暑かったからね。熱中症なんて今じゃ誰も、えっ、放射能が心配じゃないのかって、何言ってるの。7年前の安倍政権が、政府が安全だって言ったから安全に決まってるじゃないか。政府が国民や、グローバル化した世界にいい加減なことを断言するわけがないだろーに、世界を相手にだよ、だって世界だよ、オリンピックだよね。楽しみだなー、ボクが楽しみにしている競技はなんてったってフルマラソン。都市の街並みが風情があっていいよねー。氷河期のマイナス30度でのマラソンはオリンピック史上初だからさ、これは保守派も大喜びの歴史に残る一大イベントだよねー。汚染水も海もカッチカチに凍っちゃったから、もうこれで漏れ出すこともなくて安心さ。問題は経済効果に影響を及ぼす観光客が来てくれるかなってことだよね。だってオリンピック選手は、日本人だけだからねぇ...。」





9/04/2013

信仰



宇宙のことを考へる時
星の数に圧倒される
距離感に途方に暮れる

地球は宇宙の宝石
或ひは芥

出会つたことは奇跡
或ひは事故

宇宙の中
或ひは宇宙の向こう側に
きっと神はゐる
或ひは
私たち一人ひとりの
からだの中に



                                       0904203

8/12/2013



いつも何処かへ行こうと
駅の待合室に居る
いつまでも居る
行きたい場所が
わからない
決まらない
決めてもなお
いつまでも居る

行きたい場所を
探している駅の居心地は
好いとは言えないが
家に居るより
まだマシだ

できれば
政治も経済も社会も
切り離して
この世も
切り離して
子どもさえ居なければ

駅の待合室に
待ちくたびれて
子どもが眠る
子どもの絹の頬を撫でながら
私は子どもに
生かされている


                                        08/12/2013






7/30/2013

夏休み



東京はしとしとと降る雨
ふたつ並んだ窓の
ひとつの窓のカーテンを閉めきって
薄暗い室内
やっとひとりの時間
何日ぶりかは
憶えていない
それほど
ひとりの時間が無かった

そろそろ雨が上がってきたのか
外では
雀たちの讒訴が騒がしい
こんな日は
蝉の声も
南部鉄で拵えた風鈴の間合いも無いから
掛け時計と共に
一秒ごとに前へ進むほか
取り立てて何も無く

7200秒の夏休み


                                         07/29/2013



7/21/2013

教育




祖母は
女は勉強しなくていいと言われ
隠れて
トイレの中で本を読んだ
そして
親が決めた見ず知らずの人と結婚した

母は
高校へ行きたくて
嘘に嘘を重ね
里子となった
そして
背の高いサラリーマンと結婚した

祖父の死水を摂ったのは祖母
離婚したのは母
どちらがどちら
空へ尋ねても
海へ訊いても

私は
縛られた紙切れが付けた
額の傷痕を
指先でなぞる
苦い言葉を探しているのだ

                                     
                                          07/21/2013


蘇生




何百年も冷くなっていた
ミケランジェロは生き返った
鑿を振りかざす
木槌が
太陽系に鳴り響く
彼が掘り出しているものは
平和
多祥を残そうとして
愁腸の刃物の角は汗をかく

彫刻家は
腐乱臭に塗れた地球から
嘘を削り捨てた
残ったものは
武器と骸骨と
昨日は自分の腕を食べ
今日は自分の脛に噛り付いている子ども
それでもなお
木槌は太陽系に鳴り響く

                                       
                                        07/21/2013


6/08/2013

黄泉の国




ゴンドラに乗って
生まれた瞬間から
惜陰を削り
黄泉の国まで

到着の位置を知りたくば
眠る魚を叩き起こせ
川底を覗き込んで
ゴンドラは横転するだろう
誰が愚業をと
疑うのであれば
試しに魚を叩き起こして
訊くがよい
ゴンドラに乗って




June 08 2013






5/19/2013

政治家Hの政治生命を賭けた遊説




「有権者のみなさん、『男らしい』とか『男の中の男』とか、あれは僕のことです。男は男としてのプライドがありますから、今言ったみたいな言葉に、直ぐに反応するんです。『男のプライド』を持って生きることは、僕のライフワークそのものなんです。男は強さで男の質が決まるのではありませんか。そしてその強さとは、何に対してでも絶対であります。強く、もっと強くは男のプライドを維持する必修条件です。先日もアメリカ人フェミニストのおばはんがキーキー喋り捲るから、うるさいって殴ってやりました。亜、僕の前々職の法律関係者としての経験から、素手で殴って怪我でもして訴えられると面倒ですから、手袋で殴りましたよ。女なんて所詮、男の道具なんです。道具が僕に逆らうなんて言語道断であります。そして数日前の真夏のような暑さの日、アイスクリームだなと某コンビニに駆け込みましたら、僕の好きなソフトクリームタイプのアイスが丁度ひとつ残ってましてね、ああよかったと手を伸ばそうとした時、小学校低学年ぐらいの坊主が先にアイスを握りしめたんです。僕はここぞとばかりに『男の強さ』をその坊主に見せつけてやろうと、坊主の手からアイスを奪い取ってやりました。勝つか負けるか、強さを測る二極論を、体験を通じてその子供に教えました。学校教育は男のプライドを叩き込む素晴らしい行政機関でありますが、いまお話ししましたように、『男の強さ』を教えるには、日頃のあらゆる場面を活用し得ることを実践したのであります。またある時は、彼女の部屋に遊びに行った時のことですが、彼女が家族だと言いきるオス猫が、僕に牙をむいて近づいてきたものですから、その猫をコンクリートの壁めがけて投げつけてやったんです。猫は軽い脳震盪でふらつき鼻血流しまして、彼女は只々黙って小刻みに震えながら涙ぐんでいました。疑う余地もなく、彼女は僕の強さに感動したのです。そしてある時は、僕が道を歩いていると一匹の蟻が僕の前をのうのうと横切って行くではありませんか。蟻の分際で僕の前を横切るとはなんたる無礼者、と僕はその蟻を踏み潰してやりました。男は強さで、攻撃力で男の質が決まります。僕は強い。有権者のみなさん、僕の『男のプライド』を掛けた時期参院選では、僕が共同代表を務める我が党の立候補者に、みなさんの清き一票を.........」





このお話はフィクションです。実在する人物とは一切関係ありません。たとえ特定の政治家がイメージされたとしても。



5/12/2013

東横線渋谷駅迄




午後2時に慌てて家を出たのだった。誰かと待ち合わせていたわけではないが、娘との外出は、どう予定を組んだとしても時間が押してしまう。
家を出た瞬間に嫌な予感が沸き起こったが、午前中のどこまでも抜ける青空を灰色が占領し始めていたからだろうと、手袋を忘れたことにささやかな後悔を残しながら、建国記念の日の閑散として静まり返った住宅街を、足早に駅へと向かった。
途中、あちこちの庭先で寒椿の花が紅くじっと寒さに耐え、温室育ちの嫁入りしたての鉢植えの紫や黄のバンジーは、うな垂れて何事かと不安に怯えている。コートの袖口や襟元から容赦なく入り込む冷たい風に、逃げ場を失ってしまう。歩きながら、さほど暖かくもないがしっとりとした手触りの革の手袋を忘れたことを薄っすらと半分考えながら、あとの半分を娘との他愛ない会話でやり過ごし、私だけが近道と称する小洒落た今風の戸建てが並ぶ路地裏をくねくねと曲がって、踏切近くの緩い下り坂を下がりきった角に、通る度に観察している桜の大樹の道を覆う勢いで張り出した、まだまだ無愛想な表面が乾いた枝々を恨めしく仰いだ。踏切の、カン、カン、カン、カン、と鳴る警報音を全身に浴びながら育った桜である。
池上線から旗の台で大井町線、自由が丘で東横線に電車を乗り換えて、渋谷まで1時間弱。いつもであればiPhoneに目が釘付けになるところを車内の暖かさに任せ、ぼんやりと過ごす。が、ただぼんやりと車窓を眺めるには、休日の車内はこの時間帯にしては若干混み合っていた。私の悪癖がむずむずと疼く。車窓などのんびり眺めていられるものか。
のったりと走る三両編成の長閑な池上線。車内では向かい側の席に就学前の子供が二人。察するところ姉は幼稚園、弟は二、三歳ぐらいであろうか。母親はドアと座席との角で小型のベビーカーを押さえながら流れる景色に見入っている。ベビーカーに使い込んだキルティングの大きなマザーズバックと丸く膨らんだ複数のレジ袋が両側に掛けてあり、幾つもの肉のパックや菜ものや調味料の瓶が透けて見える。ベビーカーがいつ転倒するかと危なっかしい様子を凝視していると、母親は結婚前からそうしているような手つきでバランスを保っていた。母親の薄茶色のショートコートはよれていて、膝下までの茶色いブーツは合成皮革製の粗雑な作りであった。こちらに背を向け、くすんだ肌色の微かながらに右頬の曲線をこちらへ向け、面はドアの硝子と頑なに平行線を引く。姉は髪をポニーテールに結び、数本のピンで後れ毛を留めようとしていたが、既にバサバサと乱れている。弟は汚れた靴を履いた儘膝を曲げて席に座っている。二人ともぐにゃぐにゃと体を捻じって一時も静止しないから、三人用に仕切ってある座席で、姉弟だけで自由に退屈そうにしていた。駅が二つも過ぎた頃、徐に姉は斜め掛けのバッグからファストフード店のキッズバリューに付いてくるネコキャラクターのおもちゃの袋を取り出し、ママ開けていい?と尋ねた。母親は無視する。姉はまた同じように、ママ開けていい?と高い声を大きくしたが、またも母親は無視。後にこれが2度続き、3度目で眉間に軽く皺を寄せ鬱陶しい面持ちでチラと横を向き、棒読みの、自分で開けて、の答えが返った。姉は自分でビニール袋を開けようと小さな手を左右に引くが開く気配がない。ママ開けて、と3回ほど催促し、終いにはおもちゃの袋を持った腕を斜めに真っ直ぐ上げる。漸く母親は無言で弟の頭上を横切る形で渋々と手を伸ばし、袋を開けると無言で子供に渡した。ぶつぶつと独り言を話す弟の声は、電車が発するガタゴトの雑音に掻き消され、明瞭な語句を聞き取ることが出来ない。十数分の間に母親が子供達に眼差しを向けたのは、その2回限りである。他の乗客は見て見ぬふりをせざるを得ない。
車内には、特有の機械と足元から上るヒーターの熱い匂いが混ざり合い立ち込めていた。
乗り換えの旗の台駅大井町線プラットフォームにて、再び冷気に晒される。長い時間をかけて極めてシンプルに改装された駅構内は、例え夏でも寒々しく無機質な喪失感を平等に、且つ、公平に振り撒いている。私たちという大量生産の商品が、電車というベルトコンベアに乗せられるのを只管に待機している図でもある。もしこのプラットフォームで今生の別が有り得るならば、如何なる境遇にあろうとも、決して後世に美談として残り得ないだろうとまで至った寒さである。尤もあと50年も経てば、この駅構内も時代遅れだと批評を受けたり、齟齬を来たして逆にレトロだと親しまれたりするのであろう。
そのようなことを考えながら、電車の四角い前面が、徐々にこちらに迫ってくるのを見つめていた。
硬い表情の乗客に身を混ぜ、飛び込むかの如く電車に乗り込む。ほんわかと暖かい車内は、先ほどの池上線よりもやや空いていた。ほぼ座席が埋まっている状態だが、静まり返っている。単独行動の人々は無言。兎角人の心持とは実に勝手であり、機嫌の好い時はまるで御通夜の静寂の中に数十年ぶりの邂逅を求め、機嫌の悪い時には隣は何をする人ぞと、よしんば知人に遭遇したとしても、所作をあくまで自然に務めることに注意を払いながら、帽子の鍔を深く手前に眉の下まで引くのである。私が帽子の鍔を引かなかったことは、幸いであった。
私たちは旗の台駅の連絡通路にて軽い口論となり、娘には今すぐ家に引き返したくなければ暫くおとなしくして黙っていろ、と告げてあり、よって私の不安が軽減されていたのだった。兎角子供は、特に娘は口が軽い。思った瞬時に口から言葉が出る。発しようとする言葉を呑み込んで堪えることや、一呼吸置いて思慮深く話すことを知らぬ。そしてそれは、公私の場所を選ばず。
ふと周りを見渡すと、乗客は女性が半数以上を占める。皆さん思い思いの過ごし方を心得ていて、電車に乗り慣れていらっしゃる。スマホ、読書、居眠り。が、これから遊行にしては、様子がおかしい。バイトやパートへの出勤途中、あるいは帰宅途中ではあるまいか。祝日出勤は慣例化され、ましてや土日出勤可能であることを雇用条件に掲げる事業所は少なくない。いよいよ以て、娘が口を開かぬことは幸いであった。
自由が丘駅で長い上りエスカレーターから流れるように、東横線の特急電車に乗り継ぐ。車両の隅に対面式の座席が一つあり、シート背もたれと後頭部の上部が2つ並んだ向こう側に丁度並んで2人分が空席であり、迷わず娘と着席した。迷うべきだった。混み合う車内で、優先席でもない座席が空いている理由を求めるに、着席から1秒も要しない。半径1メートル四方に気まずい空気が漂う。
車内の乗客は横浜方面からの比較的若い年齢層と家族連れが入り混じる。あちこちで弾んだ声が聞こえ、渋谷方面に確かな未来図を描いているのである。
いま正に私の真向かいの窓側に座る若い女性は、背筋を伸ばし、これから訪れる彼女自身の未来に期待を寄せている。茶色に染めた肩まで辛うじて届くシャギーの髪、ナチュラルメイク、着こなしきれていないカジュアル系の服。彼女の部屋のクロゼットを開けたとしたら、ベージュ系とパステルカラーであろう。隣に座る若い男性は彼女へもたれ掛かり、深い眠りについていた。短めの髪、ブルーのシャツの襟元を、紺色のコンサバティブなショートコートから覗かせ、買ったばかりの素材が硬そうなジーンズ、黒い靴。長身の彼は、狭い車内での長い足の置き所にやや困惑を隠せずに眠るサラリーマン風、いや、どこから見てもサラリーマンである。
今更に席を立つわけにもいかぬ。席を立てば、更にその空気を乱すであろう。仕方なく、逆方向に流れる車窓の景色を眺めることにして、乗り物酔いを覚悟した。が、それでは本当に酔ってしまうから、景色の途中で広告を挟むかの如く彼女の顔をチラと見る。
彼女の口元は微笑み、窓から前方に向けられる大きな黒い瞳には、怖いほどの自信が満ち溢れている。終点渋谷駅までほんの数分ではあるが、何度見ても彼女の顔付きが変わることは無かった。
そして私は幻影を見た。
彼の左腕に絡んでいる、太くて長い頑丈な鎖。彼女の横に眠るは、俎上の魚か。
到着したプラットフォームでは、夥しい人波に呑まれ、鉄道マニアによるカメラや携帯のシャッター音を聴きながら、娘と逸れてしまわぬように改札口へと向かった。
折しもその日はバレンタインデーが迫る休日。渋谷駅周辺の特設チョコレート売り場では、女性たちの腕が、ジャラジャラと鳴り響いていた。
思えばこれが私にとっての「地上での最期の東急東横線渋谷駅」だった。現在の渋谷駅は地下5階に潜り、東京メトロ副都心線と繋がる。


May.11.2013








5/05/2013

言論




負としての
言論の自由が
積み重なって
寄り集まって
固めて固めて
いつしか
言論の銃になり
実体に化した銃は
銃を持つに相応しい
持ち主を探し出す

言論は
部屋から街角に
飛び出し
生身に銃口を向ける

言論の自由は
時として
積み重なって
寄り集まって
固めて固めて
いつしか
虹になることを
銃の持ち主は
知る由もない
針の雨に打たれたことが無いから




May.05.2013

4/29/2013

主権




アングラ劇団員が這いつくばる
蜜蝋が塗り込められた床の上
噎せ返る甘い匂いは
誰のモノ

委ねなさいとはお可哀想に
キュッキュッ
衣擦れの音に
無粋で卑屈になった蚕が
梁に凭れてケラケラ笑う

ライトは消しますよ
霜が張り付いた体温計
中の水銀を固めて
闇を呑み込んで
息を呑む
次のステージの幕は
開いてしまった

蜜蝋が塗り込められた床の上
噎せ返る甘い匂いは
誰のモノ





Apr.29.2013

4/25/2013

有限会社 雲丹白




「コホン、えー皆様、え本日はお忙しい中、このように多数の方々にお越し頂きまして心より感謝申し上げます。また、平素よりの御愛顧につきまして、重ねて厚く御礼申し上げます。えさて、弊社は兼ねてより『反ブラック企業』の目標を掲げ、日夜邁進致してまいりました。この度、皆様のお引き立てにより、念願の支店を開店する運びとなり、何度も同じ事を繰り返して長々とお話しいたしますが、一言ご挨拶させていただきたく存じます。
え皆様ご存知の通り、創業以来、弊社の経営理念は『厚利少売』にございます。こちらもご存知の通りの初代社長、丼上(どんのうえ)まきまきが弊社を創業する以前に薄利多売営業の企業に就職し、『月400時間勤務のサービス残業ってそれなあに症状』が発症いたしましたことに端を発しております。巻いて巻いて巻きつくしても終わりなき仕事量に、丼上はとことん泣かされました。休日は英会話教室にて教師に終電に間に合わない深夜まで食い下がった、と縦100センチメートル横75センチメートル厚さ10センチメートルの社史本に痛々しく記し、後世にまで伝えられております。表紙には某前衛芸術家による肉筆作品を用い、そのたった一冊の社史本の凝りようから、丼上の創業前の屈辱感を鮮烈に窺い知ることができます。そのような経緯から弊社ではまず、企業の行く末を担う従業員の健康管理、及び労働環境に細心の注意を払っております。まかり間違って従業員が労働組合を立ち上げたり、うつ病にでもなって民事訴訟などを起こされては、弊社のイメージダウン、果ては製品のイメージダウンに繋がりかねません。なにより、お客様に直に接するスタッフの顔面が蒼白で、目の下に隈を作っているのであれば、お客様の何処に購買意欲が湧くことでありましょう。従業員あっての企業ありき、これは丼上の確固たる信念に基づく経営理念に他なりません。つきましては、弊社では商品の最低販売価格を1000万円からと設定し、最高販売価格は雲の上、国内の有力者、要人を顧客ターゲットに展開してまいった次第でございます。従業員の残業は一切認めず、仮に残業を行った従業員には、一回につき1ペナルティとして記録に残し、10ペナルティで翌月給与の5%減額措置を執り行う社則が設けられております。とはいえ商品が高価であるがゆえ、一日いっこの商品が販売できれば、会社経営として十分に成り立つ売上を達成でき、お客様もご多忙の方々が多く予約制をご利用され、接客はほんの30分、一日の労働時間の残り7時間30分は、言わば時間潰しの自由時間にございます。初代社長の丼上は、この自由時間にせっせと社史を書き上げました。最近の社内では「仕事が趣味」という無趣味の味気ない中堅社員が、ツイッターやフェイスブックなどに、『つらいツライ辛い』とボヤいておるようですが、あれはもっと仕事量を増やして欲しい、といった要望だと弊社では捉えております。やはり趣味とは、その人物に厚みや奥行きを齎す隠し味のようなものですから、勤務時間中にいかにして趣味に没頭出来るかに焦点を当てて、弊社としての今後の社員教育についての、取り組むべき課題と言えましょう。えー話は代わりますが、次に給与についてお話ししたく存じます。弊社では会長以下取締役、役員、新卒の新入社員に至るまで、年収3000万円の報酬額一律制を導入いたしております。これは世の女性たちの「結婚するなら年収3000万円以上の人がいい」というリサーチに基づく設定でありまして、ですから、弊社男性社員に婚活といった余計な苦労はさせたくない、という丼上の世才による計らいがこの数字を弾き出したのでございます。女性社員につきましても勿論同額を支給し、エステにヘアサロン通い、ブランド品を身に纏う彼女たちをそれとなくチラ見するだけで、男性社員の労働意欲も向上し得る職場環境を整えております。尤も、女性社員の集客力は男性社員に劣らず、我が社を牽引する中枢となりつつありますが。また、早々に男女分け隔てなく「育児休暇3年」を導入し、その3年間においては給与の80%を保証することと規定いたしました。そして、職場復帰につきましては、育児休暇を取る以前のポジションにて復帰してもらいます。子どもを3人もうけることで9年間の育児休暇が確保でき、且つ、生活水準もある程度維持できると、最近では大手商社やメガバンクからの転職者も後を絶ちません。有能な人材が放っておいても集まりますから、弊社の辞書には「社内競争に勝ち抜く」や「人材を振るいにかける」という言葉は存在いたしません。有難いことに、離職率は言うまでもなく0%です。近年では何処で中小企業の弊社の噂を聞きつけたのか、海外からの就職希望者も多く、現在70カ国のスタッフが、日々、暇を持て余しております。それに伴い海外の有力者、要人が、表向きは外交や出張と称して日本に赴き、弊社本店に訪問して下さる機会が増加いたしました。従来の企業であれば、海外に支店を開店するところではありますが、世界中からお客様がお越し下さいますので、その必要もなく、弊社は国内にての本店の1店舗だけで、黒字計上続きの決算を更新中にございます。しかしながら、国と国の利権上、お互いにお顔を合わせては気まずいお客様方々もいらっしゃるようで、手狭となり、この度支店を開店することと相成りました。初代社長丼上が残しました社訓、「悪どい奴ほどふっかけて、搾り取れるだけ搾り取れ」を礎にいたしました本店同様に、支店も御愛顧いただきたくお願い申し上げます。それでは以上を持ちまして簡単ではございますが、私のご挨拶とさせていただきます。では、ご質問のある方は、はい、そちらの寝癖ついた方どうぞ......はい......はい......はい......弊社の商品とは何か、というご質問ですね?なるほど、鋭いご質問です。地位、名声、有り余る財などを手に入れた方は、それらの代償として失うものも多ございます。私どもは、その失ったものを取り戻すお手伝いをさせていただいております。商品は『夢』『道徳』『博愛』の三本の矢、今年イチ押し新発売の高額商品『血』と『涙』、そして『情』と、各種取り揃えてございます...」



Apr.25.2013


4/21/2013

面影




未明から降っていた雨が上がった
雨が降ると
天竺浪人も
帰る家を思い出す

濡れた躑躅咲き乱れる丘に
郷愁を掴み取る
付き纏う面影

こうして居る間にも
道標を残しては
暮春の冷たい雨の香りを
臆病な二豎(にじゅ)に差し出そう
早く出てお行き
何も手に付かない午後



(Apr.21.2013)



4/14/2013

【Apr/14/2012)】色物による返礼





若葉が香り立つ新鮮な言葉だった。
「GDPの伸び率以上にどこまでも需要を伸ばし続けられる経済などありえない」(朝日新聞4月11日朝刊19面「ジャン・ピサニフェリー教授のコラム@パリ大学」より抜粋)
全くもって、そうだ。ありえない。需要を伸ばし続けるには、GDPの伸び率を上げなければならない。解りきった話である。
しかし、新鮮に映ったのは、「デフレ脱却」がイカレタ録音機材かと思うほどエンドレスリピートに拡声し、「GDPを伸ばし維持しよう」と、お坊っちゃま政治家が明確に発言しないからである。
お父さんが毎晩新橋のガード下に足蹴もなく通い、千鳥足をSLの前で披露するには、お父さんの毎月のおこずかいの額を上げなければならない。
それじゃ華がないからつまらないと、革張りソファに「座って10万円」の銀座高級クラブへ通い続けるには、接待であと一押しの契約まで漕ぎ着けることができる新規顧客を開拓し続けなければならない。
需要を維持するということは、そういうことである。が、お坊っちゃま政治家は、おこずかいの額を上げてと奥様に嘆願する必要性もなければ、選挙で当選までに至る固定票を集めていれば、わざわざ労力と時間を消費して、新規支持者集めに日々翻弄する必要性もないのであろうか。

「飯にしてくんな」
「ないよ」
「ない?」
「お米がないんだよ」
「なきゃ買ってくればいいじゃねーか」
「御足がないんだよ」
「御足がない...そうか、じゃ寝るか」
これはかつての庶民の愛すべきお気楽加減だ。ある落語の一節である。
江戸時代には、家族をほったらかして勤労意欲に燃える男のことを「甲斐性なし」と呼んだそうである。恐らく女たちが言い出したことであろう。せっかく夫婦になっても家に居ない、会わないのであるから「夫婦になった甲斐がない」のだ。
が、江戸時代の気楽な庶民労働力では、GDPの伸び率は上がらない。調べていないのでなんとも推測に過ぎないが、主食であるお米の需要が減少傾向に陥ったとしても、理にかなう流れであろう。
さて、前置きが長くなった。
今日はあくびが出るほど退屈な、自分語りに徹しよう。
私自身、この頃において退屈な日々を送っている。退屈している人が書くわけであるから、退屈な話は避けられない。
福島第一原発事故による汚染水漏洩も、北朝鮮による武力行使をほのめかす恫喝も、「改憲」を謳う自民党と維新の会の雑音も、どれもこれも退屈である。これらの出来事は激昂に比することであり、そして且つ激昂しているけれども、我が心は退屈である。というよりも寧ろ、ここ数年前から今日に至るまで、これ程までの刺激を受け続けることにより、何が起こっても驚かなくなっている感覚の鈍りが、「退屈」を創出している。
不謹慎であることは承知の上である。私の憤りも遂には上限を越え、迷走段階に入ったと言えよう。
憤りを緩和させるストレス発散方法は、「ショッピング」。私のようないい大人の女は、お財布の中が空になるまで、買って買って買いまくってこそ、社会貢献だと言い訳しながら逸り気を俄かに消化する。ストレスを、趣味と実益を兼ねた愉悦に替える有益なチャンスである。大人の女は高くつく。
ところが、肝心の物欲が無い。ストレスを感じなくなっているのか、末期の重症である。いますぐストレッチャーの上に横になって、救急搬送されたい。酸素マスクと点滴で処置されたい。赤信号のハチ公前スクランブル交差点を、時速120キロでビュンビュン走行していただきたい。中井貴一似の救命士が私の顔を覗き込み中井貴一似の滑舌で「もう大丈夫ですよ」、と優しく語りかけてもらいたい。
「私たちの国の民主主義」たるいい加減な政策に辟易しているのだ。民意が待てど暮らせど政府まで届かない。私と思いを同じにしている方も多かろう。ヘラヘラとしたせせら笑いが、意識するとも無く口元を襲う。やはり重症だ。もはや知らぬ間に私の中に悟り菌が入り込み、発症に至ったのか。抗生剤だ抗生剤だ、早く早く。いや、私の物欲は強固でしたたかであるから、悟り菌への免疫力がある、はずである。第一、このようなことを言うと、何処かの御前様に叱られる。が、需要に寄与できぬもどかしさ。社会人のひとりとして、忸怩たる思いが募る。どうにかして是が非でも、治療せねばならぬ。
「紅茶キノコ」を飲むべきか...。
いいえ、ダメよ、あんな得体の知れないものを飲んじゃ。それにあれは「キノコもどきを浸した紅茶」であって、名前だけを聞くと「キノコ」が主。本来は紅茶を飲むのだから「キノコ紅茶」でなくちゃネ。「午後の紅茶」であり、「紅茶の午後」は飲みたくても飲めないぞ。ああ、誰か私にAEDうぉおおぉおぉおぉぉぉ...。

今月に入り非正規雇用の仕事に就いた。私のGDPの伸び率が、チョッピリ上がったというわけさ。
が、末期症状のあくびをしている間に、ついうっかり重大なミスを犯した。予約し忘れていたのだ。だから私の病が治らないのだ。問い合わせの回答は「次回の日時は未定」だという。だが、今度こそと次回の予約を入れた。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という村上春樹氏の処方箋を。
あれ?しっかり物欲あるじゃん...。




4/07/2013

【Apr/07/2014】遊牧民の柴笛が聴こえる




どう‐とく【道徳】

①人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。夏目漱石、断片「―は習慣だ。強者の都合よきものが―の形にあらはれる」 →道徳性。
②老子の説いた恬淡てんたん虚無の学。もっぱら道と徳とを説くからいう。
③小・中学校における指導の一領域。 →道徳教育。
(上記 広辞苑電子版より引用)


冒頭から「道徳」という堅苦しいお題を掲げてみる。
一般的に「道徳」とは①を指すであろうか。
「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体であり、法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理でもあり、今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる」のである。ああ、解りやすい、のか。
「ある社会で」の「ある社会」とは「ある社会」であるから、「どの社会」にも当てはまる。
それを大前提に仮定すると、「ある社会」における「ある道徳」が如何なる社会、狭義を超えれば、如何なる時代にも「道徳」は存在し得る。
そして、「その成員」の「そのある社会」に対する、あるいは「ある社会の成員相互間の行為のある社会においての善悪を判断する基準」として、「ある社会の一般に承認されている規範」の「ある社会の総体」である。
よって、「ある社会」にとって善悪を判断する基準において最良の「道徳観」や「道徳心」が「ある社会」においての一般として培われることになる。
ここでいう「ある社会」は多数に存在し得るからこそ「ある社会」として仮定される。
このことを踏まえると、「幾多のある社会」においての「幾多の道徳」が存在してしまうのだ。
漱石の「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらはれる」を引用したのは非常に妥当だと感じ入るものがある。
「ある社会」の「善悪を判断する基準」が違えば、「道徳」の根本が覆されてしまう。
そして道徳は「習慣」になっている個人の内面的な原理なのである。個人の内面的原理に至る習慣になるまでの道徳を形成するまでには、ある程度の過程が必要であり、その過程の道筋を教示するのが強者であるならば、強者の変化や交代により「道徳」も変化しなければ、話の辻褄が合うまい。強者とは、社会的強者、すなわち権力を持つ者であろう。
もう少し噛み砕いて話そう。私は小学校の歴史(日本史)の授業で、「斬り捨て御免」を習うと同時に、道徳の授業で「命の尊さ」について習った。この矛盾は、私たちの国に於ける「ある社会」が変化したからである。現代にて「斬り捨て御免」を行えば、それこそ国際社会からの非難が集中する的となろう。
が、小学校の歴史の授業では、「斬り捨て御免は命の尊さに反した由々しき怪しからぬ行為だ」と、道徳と抱き合わせで教えないのである。これも矛盾しているが、その教え方が「強者の都合のよきもの」であるならば合点がいく。

道徳、モラルと言った方が響くのかもしれない。そのモラルの乱れは強弱があるとしても、今に始まったことではない。犯罪は後を絶つことがなく、モラルの度を越した崩壊をあえて好む(この表現が適切だとは思わないが)、あるいは集団心理で流れる人々が、いつの時代にもいた事は認めなくてはならないが、だからといって、それは仕方のないことだと片付けることではない。
ここ数年を振り返っても、「虐待」「いじめ」「差別」。
少々強引な考え方ではあるが、「ある社会に於いてのモラルという習慣の促進手段が、強者に都合よく構成され流布される」のであれば、「モラルという習慣は、強者に都合よく崩壊される」ことも可能である。大概の場合、創ることが可能であれば壊すことも可能であるからだ。しかも壊すことの方が、容易い。そしてとりわけ強者にとって都合の悪いモラルは、モラルではなく障壁に等しい。
この頃のモラル崩壊に関する事件や事例を以て察するに、戦後から平成に至って当然とされてきたモラルのあり方が、異状に移りつつあるように感じざるを得ない。
「子どもを救おう」というプラカードを掲げた脱原発デモが誹謗中傷される一方で、「朝鮮人を殺せ」というプラカードを掲げたデモを擁護するような動きが同時期に起きていることを、もしも傍目に見れば、実に滑稽であろう。
私はこの個人の内面的原理が、強者にとって都合のよいモラル破壊に利用されはしないか、と危惧している。
社会的強者の、口ごもり尾を引く永田町戯曲を聴くより、私たちが住む国のモラルが、どこを軸にしようとしているのかを、社会が法律と照らし合わせて提示しているのでなかろうか。私たちの国の道徳心が揺らいでいることは明白である。また、「改憲」を謳う自民党とって、現在の日本国憲法の障壁とは何か。障壁を取り払ったその後に、用意されているものは何か。もとより強者は景仰に値する人物なのかを、100日過ぎた今、これらを照査して見極める時期に入ったと言えよう。
「個人の内面的な原理」は「人のふみ行う道」を踏み外すことではない。それこそが道徳であり、社会的強者の道徳観が、社会に形となって露呈されるのであろう。
また、経済成長に水をさすようで恐縮するが、道徳観が揺らぎ治安の悪い国、道徳観が共有できぬ国への海外からの投資は維持できないことも、これもまた歴史という過去のデータにより確信的であるのだ。

ああ、「道徳」とはなんと解りづらいことよ。と、嵐が去った澄みきった日曜日の青に、一個人の想念を重ねる。













3/30/2013

真っ当な金銭感覚による立ち話




「あら、奥様、その左手に光る指輪、もしかしてダイヤじゃなくて?」
「まっ、奥様も目敏いでございますわ。ええ、宅の主人が20年前にわたくしに買ってくれた200万円のてふぁにいなんでございますのよざます、ほっほっほっ」
「やっぱり奥様はお目が高くていらっしゃって、さすがでございますわ、ほっほっほっ」
「あら?...奥様の口元の左手に光るその指輪...」
「あ、これはほんの安物ざます。ほっほっほっほっ。40年以上前のたかがほんの500万円のかるちえざますわ。宅の主人が株で儲けて衝動買いしたざますざますわ、ほーほっほっ」
「まあすごい!衝動買いとは。やはり奥様はやることが大胆でらして」
「いえいえ夜はもっと、あ、いえ、ところで奥様、今日の八百屋さんの広告ご覧になられましたざます?」
「いいえ、まだざますけれど」
「今日はなんと大根が税込み一本10万円ざますのよ!」
「まあ!なんて安いざますわ!わたくし昨日10万飛んで1円で買ったばかりざますわざます、悔しいざますわ!」
「ホントに毎日の節約倹約生活も、年金支給年齢が80歳からになったからざます。それに20年前のアベノミクスから続くインフレで、物価は当時より1000倍に跳ね上がったざますざます。消費税も20%に。なのに年金支給額は10年前から据え置きざますわねぇ...」
「ホントにねぇ、気が滅入りますわねぇ...。あ、奥様、たまには気晴らしにランチでもご一緒にいかがざます?隣町の駅前にフレンチの新しいお店ができたざます。ホテル上がりのオーナーシェフが腕を振るうって、評判ざますわよ♪」
「そうざますわねっ、美味しいものでもいただいて、明るい気分になるざますざますわっ、あ、でも...」
「奥様、ご心配には及びませんざますわ。なあーに、デザート付きでたかがほんの500万円ざます」
「まあ!お安いざますわ!宅の主人の定年退職金の、ほんの10分の1ざますわねっ!」


Mar/30/2013





3/27/2013

【Mar/27/2013】


桜咲き、サクラチル



春を迎える心構えとして、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読む。(http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42618.html 青空文庫)
観桜にはそれぞれの快楽があろうが、坂口安吾はこともあろうに冒頭から宴会を真っ向から否定する。
そして「人間がいない桜の木の下は、怖い」と語り始める。
今年は春の訪れが早く、東京では桜の花が満開との知らせを受けた。「景気が上向き」という。お花見を楽しむ人々で賑わいを見せる様子が各地から届く。
が、宴会も悪くはないが、できれば桜はひっそりと眺めていたい。安吾に同調していうのであれば、あの「怖さ」がいい。裏返すと、「怖くない桜」は二流三流の桜である。どこまでの怖さを堪能できるかで、桜の花の真価が問われると断言してもいい。この「怖さ」については、ツイッターで拡散され@マーク付きの野次が束になって飛んで来ようが、引かない、曲げない、怯まない。
よくよく考えてみよう。
私たちの国では、桜を特別扱いにしてはいませんか。
春の枝に花を滲ませる樹木は、桜だけではあるまい。梅、沈丁花、木蓮、こぶし、ハナミズキ、ミモザなど。椿はひと冬の間、あれほどまでに献身的に花を絶やさず咲かしても、私たちの桜の花に対する思い入れの半分にも満たないであろう。職場であれば、なによっ桜ちゃんばっかり、と同僚に陰口を囁かれ、学校であればモンスターペアレントが、うちの沈丁花ちゃんが地味で目立たないから桜ちゃんを贔屓目に見て、とお叱りの雪崩に埋もれるであろう。長い歴史を繙いてみても、ご先祖様から末裔まで、桜一色に染まる危ない橋を凝りもせず、幾つも渡り続けているのだ。
それでも私たちは桜の開花をひたすらに待ちわびる習慣が染み付いている。開花すればするで狂騒に明け暮れる。これはもうDNAに組み込まれていると言ってもいい。サルからホモサピエンスに進化した際、私たちの脳内に桜を過剰に感知する機能が、知らぬ間にどこかに潜んだのか。一体これを、どのように解釈すれば好いのであろう。
満開の桜の木の下で頭上を仰ぎ見、枝枝が折り重なり花々の天蓋に空を阻まれた時、ここが何処なのか、何時なのか、異空間に圧倒されては叫びながら走りだしたくなる時がある。背筋がゾクゾクと寒くなる。その環境が一人であれば、尚のことだ。重要文化財指定の建物の中で偶然にも貸切り状態に置かれた場面や、廃墟を見学した際にも同じような感覚に襲われる。美術館や画廊にて、張り詰めた意識を発する作品を鑑賞しても背筋が寒くなる。そしてその感覚には何故か中毒性があり、その感覚を得るには一瞬の時間を切り取らなければならない。美意識の限界を感じながら、常軌を逸する境界線の内側に足を踏み留めるのである。「華美なるものに対して畏怖の念を抱く」のだ。
が、これだけは言える。「畏怖の念を抱くものが美しい」と解釈することは、大いなる誤解も甚だしいことである。









3/16/2013

不健康オタクは胃が弱い




「今日の夕食は数ヶ月ぶりかで牛丼を作ったのだよ、あはは。何故に牛丼かと言うと、レパートリーの中で牛丼はあさってのことを考えながらでも作れるんだネ。そして牛肉がお買い得品だったからなんだな。輸入牛肉なんだな。まずい。あはは、腕じゃない、肉である。
もし肉饂飩を作るとして、黒毛和牛の霜降り肉を惜しげも無くどっさり使うと、みんな饂飩に足向けて眠れなくなるぞ。てか饂飩が居る方角はどっちだ?
いつだったか年号も忘れちゃった昔、アメリカが我が国に牛肉とオレンジを買え買えと詰め寄ったことがあったのネ。そんときゃ、あたしゃ牛肉大好き乙女でネ、いまでも乙女だけど。日本製の自動車がアメリカで売れに売れて、日本はあーしたどーしたとかゆーのが2位で、1位に追い付くんじゃないかって、だからアメリカ産の農産物を買わせて1位を守ろうとしたらしいの。あーなんてノスタルジアな、は・な・し。瞳がうるうるしちゃう...。
ところで、『TPP』ってなんなの?『参加表明』したって、さっき朝日デジタルに書いてあったわ。いい大人は新聞ぐらいは読まなきゃネ。
安倍さんの記者会見とは真逆の、噂だと「国民皆保険」が危うくなるかもなんて。前にも話したけれど、保険に加入できない人がいるようになっちゃ、我が国はおしまいよ。だって、IQ178の少年が病気になっても治療を受けられない、なんてことになったら、果ては我が国の多大なる損失となるでしょうに。未来のノーベル賞候補が、ばたばたと倒れても放置されてしまうとだな。人道的にも治療と手厚い看護を施すのが筋ではあるが、IQに関わらず、乳幼児青少年から高齢者まで男女ゲイ問わず、治療と手厚い看護は不可欠なんだな。どないしょー。
そのように考えると健康維持には食生活に留意して過ごさなくては...。政府は、私たち国民の食の安全を守ることができるのかしら。イエス キリストがそうしたように、全国民のお腹を満たすことができるのかしら。
安倍さんが某国女王の小姑が言ったように『お米が無ければ自動車を食べたらいいじゃないか』と言わないことを祈ります。」