3/27/2013

【Mar/27/2013】


桜咲き、サクラチル



春を迎える心構えとして、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読む。(http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42618.html 青空文庫)
観桜にはそれぞれの快楽があろうが、坂口安吾はこともあろうに冒頭から宴会を真っ向から否定する。
そして「人間がいない桜の木の下は、怖い」と語り始める。
今年は春の訪れが早く、東京では桜の花が満開との知らせを受けた。「景気が上向き」という。お花見を楽しむ人々で賑わいを見せる様子が各地から届く。
が、宴会も悪くはないが、できれば桜はひっそりと眺めていたい。安吾に同調していうのであれば、あの「怖さ」がいい。裏返すと、「怖くない桜」は二流三流の桜である。どこまでの怖さを堪能できるかで、桜の花の真価が問われると断言してもいい。この「怖さ」については、ツイッターで拡散され@マーク付きの野次が束になって飛んで来ようが、引かない、曲げない、怯まない。
よくよく考えてみよう。
私たちの国では、桜を特別扱いにしてはいませんか。
春の枝に花を滲ませる樹木は、桜だけではあるまい。梅、沈丁花、木蓮、こぶし、ハナミズキ、ミモザなど。椿はひと冬の間、あれほどまでに献身的に花を絶やさず咲かしても、私たちの桜の花に対する思い入れの半分にも満たないであろう。職場であれば、なによっ桜ちゃんばっかり、と同僚に陰口を囁かれ、学校であればモンスターペアレントが、うちの沈丁花ちゃんが地味で目立たないから桜ちゃんを贔屓目に見て、とお叱りの雪崩に埋もれるであろう。長い歴史を繙いてみても、ご先祖様から末裔まで、桜一色に染まる危ない橋を凝りもせず、幾つも渡り続けているのだ。
それでも私たちは桜の開花をひたすらに待ちわびる習慣が染み付いている。開花すればするで狂騒に明け暮れる。これはもうDNAに組み込まれていると言ってもいい。サルからホモサピエンスに進化した際、私たちの脳内に桜を過剰に感知する機能が、知らぬ間にどこかに潜んだのか。一体これを、どのように解釈すれば好いのであろう。
満開の桜の木の下で頭上を仰ぎ見、枝枝が折り重なり花々の天蓋に空を阻まれた時、ここが何処なのか、何時なのか、異空間に圧倒されては叫びながら走りだしたくなる時がある。背筋がゾクゾクと寒くなる。その環境が一人であれば、尚のことだ。重要文化財指定の建物の中で偶然にも貸切り状態に置かれた場面や、廃墟を見学した際にも同じような感覚に襲われる。美術館や画廊にて、張り詰めた意識を発する作品を鑑賞しても背筋が寒くなる。そしてその感覚には何故か中毒性があり、その感覚を得るには一瞬の時間を切り取らなければならない。美意識の限界を感じながら、常軌を逸する境界線の内側に足を踏み留めるのである。「華美なるものに対して畏怖の念を抱く」のだ。
が、これだけは言える。「畏怖の念を抱くものが美しい」と解釈することは、大いなる誤解も甚だしいことである。









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