11/10/2013

寺済廣町北越川州武


           

扉が閉まっていると、開けて中を見たくなる心境に堕ちることは、至ってマトモな心理状態であろう。
 
「開かずの扉」
 
開けずにはいられない欲求と衝動と、それらを抑制する理性との鬩ぎ合い。どうしても開けて欲しい扉には「この扉開けるべからず」とヤレ紙に走り書きして張り紙することで、大勢の人々を扉の内側まで誘導出来るであろう。
浅草寺の観音菩薩像は、何百回何千回御参りしても、そのお姿を拝むことは出来ない。昔からの決め事である。観音様は簾で仕切られたいわゆる「開かずの間」に佇立なさっていらっしゃる。よって私たちは、開かずの間に引き寄せられるように雷門をくぐり抜け、人形焼が焼ける江戸の郷愁感に満ち溢れる香しい甘い空気を振り切って、せっせと足早に仲見世通りを直進するのである。
 
厨子という仏具を買った。高さ約12cm、観音開き扉の四角くて小さい木製の箱。簡素な作りではあるが、骨董好きであれば本物だと一目でわかる。家に帰ってから調べ、やっと厨子という名称を記憶の地の底から引っ張り出して思い出した代物である。仏さまを安置する入れ物。お仏壇も厨子だというから、どうやら大きさではなく内容によるらしい。
骨董店では厨子の扉が閉められていたから、初老の品のいい店の御主人に、これは何ですか、と些か不躾な疑問を投げ掛けてしまった。要するに、扉を開けてみたくて仕方ないのである。お店の御主人が何処ぞの堅物であれば、これは厨子です、で会話が途切れたであろうものの、流石年の功であろう、これはですね、と話しながら扉の縁にスッと指先が伸びる。
そーそー、それそれ。
さっきからうずうずしていたの。
尤も、店主はその質問を待ち構えていたのであろうが。ゴクリと固唾を呑みながら、封印が解かれる如く静かに見守りながら、店主の講釈に耳を傾ける。曰く、江戸時代のもので、宮大工が一点一点作り、寺院が檀家に配布したものだという。なるほど、どうりで長い年月を経ても、観音開きの扉の建て付けに一分の狂いなく、底板のかたつきもなく。扉の中には緋色の布で裏打ちしてある古びた一枚の木版刷りが、内壁の三面に沿うように二ヶ所に折り目を付け、コの字型に置かれている。厨子はこの一枚に合わせて作られたのである。朱肉の色も鮮明な、風格ある刻印も押してある。そして画面の正面奥に、どなたかがいらっしゃる。だが、小さ過ぎて肝心のそのお方が、釈迦なのか菩薩なのか分からない。手前にもそれぞれ一対の翼を背負うお二人。よく見ると最下部に、これまた小さい文字で「寺済廣町北越川州武」とある。「ぶしゅうかわごえきたまちこうざいじ」と読む。無論、江戸時代の横書きは右から左へ読む。列記とした仏具であり、ましてや中に仏さまがいらっしゃる。どなたか分からずとも、我が家へお連れしないわけにはゆかぬ。

 自宅へ戻り、うやうやしく厨子の扉を開ける。快感である、且つ爽快である。なんて心が弾むのであろう。
ルーペを用いて中を覗き込むと…「お不動さん」で信仰を集める「不動明王」ではないか!手前のお二人は、向かって右側は一般的な天狗、左側は鼻先が尖っている木の葉天狗であった。
こうなると「廣済寺」についての歴史や背景を調べたくなるのは、至ってマトモな心境である。ざっくりと調べたが説明すると長くなる故、長文を苦手とする私の気が滅入る。もしもご興味があるのであれば「川越 広済寺」で検索すると、色々とヒットするからお試しいただきたい。
武州とは武蔵の国即ち関東、埼玉県川越市の喜多町にある広済寺。宗派は禅宗の曹洞宗で、それは私が生まれた時の生まれた家の宗派である。大本山は福井県にある永平寺と横浜市にある総持寺。
後に両親が離婚して私は母に引き取られ、母の実家は神道で、当の私の信仰は宙ぶらりん。
しかし、幼少期に身内の祥月命日には僧侶が般若心経を誦している声を背後から聴き、両親や祖母に伴って事あるごとにお寺へ連れて行かれたことも手伝ってか曹洞宗には馴染みが深く、厨子から滲む落ち着いた佇まいは自然としっくりくる。直線で構成された形で、屋根にあたる部分は、一枚板に中心の頂から四方に緩やかな傾斜を設け、その傾斜の延長する流れが、内部に蟄居なさっている尊いお方を軒下から全体をやんわりと包み込みお守りしている感じが伝わってくる。色はやや赤みがかった焦げ茶で、150年、もしくはそれ以上の時に晒され、変色したものと思われる。
こうなると、この厨子に纏わる詳細な背景を知りたくなり、広済寺に電話をかけてみた。まだ若いお声のご住職が仰るには、考えられることは、本堂を建て替えた際に携わった方々へ、そのお礼として配布したというのが有力説ではあるが、江戸時代といえばそれ程裕福ではなかったであろうから、元々お寺で祀られていたが、本堂を建て替えた際に何らかの理由で流出したものである可能性もあり得る、と。また現在、不動明王を単独で祀ることはない、とも仰った。宗派によるものであろう。
ご住職は住職になられてからまだ日が浅く、昔のことについて先代がご健在であるからいずれにせよ尋ねて、私まで連絡して下さるとのことであった。実に有難いことである。

だがしかし、今、私に幾つかの問題が生じている。上記で、厨子を買った、と書いた。不動明王は、曹洞宗ではお釈迦さまが煩悩を焼き尽くしている内証の姿とされている。ましてや、仏さまである不動明王を「買った」とは言えない。よって、厨子を買った、としか言いようがないのである。
だがそうなると、厨子を購入したら不動明王が添付されていたことになりかねない。言うに及ばず、厨子の主は不動明王であるから、これもまた釈然としない。しかし、これも言うに及ばず、私が不動明王を我が家へお連れした最大の理由は、仏さまであろうお方がオークションにかけられ、流通経済の真っ只中に置かれていることに歯止めをかけたかったからであり、それを達成するにはそれなりの代価が必要であったのである。際たる矛盾。
また私は、あれが欲しい、これが欲しい、あなたが欲しいと煩悩まみれ。私とは煩悩が食べて寝て泣き笑い服を着て歩いているようなもので、この細やかな楽しみともいえる欲望という名の果実を焼き尽くされては、どことなく淋しい。
よって、厨子の扉を気軽に開けることが出来なくなってしまった。この畏怖は、仏教に対する信仰心の芽生えの顕れであろうか。

骨董店では、厨子の台座として黒い硯を裏返して展示され、硯をサービスで戴いた。さて、長話はこれぐらいにして、私も硯に似た黒のiPhoneを今回はそろそろ伏せることとしよう。それにしてもiPhoneは長文のタイピングが面倒で不向きで、やはりMacBook Airを購入するべきであろうか。
「不動明王」を唐から日本に伝えたのは「弘法は筆を選ばず」の弘法大師こと、空海である。




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