12/05/2012

【Dec/05/2012】玄関とサンタクロース

この年末、「年末」なんて言葉を使うような時期に突入してしまった。本来、クリスマスという行事に向かって賑賑しくなる季節なのだが、都知事選、衆院選が凌駕してしまった気配が無きにしも非ず。
昨年は大震災があり、とてもじゃないがクリスマスを迎える気持ちには至らなかった。今年は党や立候補者が暗躍に走り回っている間にも、サンタクロースの親たちは子供を想うことであろう。それにしても子供の楽しみが、選挙に掻き消されてしまいそうだ。勿論、子供の未来を左右する総選挙には注視しながらではあるが。そういえば、と一昨年から仕舞いっぱなしになっていたクリスマスリースがあることを思い出し、遅ればせがら玄関のドアに飾る。リースはゴールドに着色された蔓に、赤くて細いベルベットのリボンを全体に巻き付け、上部に木の実の束をあしらった極めてシンプルなデザイン。数年前の自作である。これでサンタクロースも迷うことがないであろうか。が、うちの娘は高校生で、もうサンタクロースは我が家へ来訪しない。嬉しいやら寂しいやら、じつに嬉しい。
日本の玄関は不思議な空間だ。玄関ひとつで外から完全にシャットアウトされる。「玄関先で失礼します」や「土足で踏みにじる」などの言葉にもあるが、玄関はその家々と外との境界線の役割をしっかり果たしている。そんなことは周知している、と非難されそうであるが、よくお考えいただきたい。世界では家の中に入る際、靴を脱いで上がる生活習慣がある民族のほうが少ないのである。私たちは「家の中に入る」のではなく、「家に上がる」のである。先程私はあえて「うちの娘」と言った。これが他国では「私の娘」という確率が高くなると思われる。「うちの子」「うちの母」「うちの学校」「うちの会社」、毎日頻繁に耳にする。「うち」があるのであるから、対比して「そと」が必ず存在する。
以前、著者が外国人の何かの本の中に、「日本は欧米化しているといわれるが、一歩建物の中へ入ると、そこにはどこを見ても日本がある、云々」と書かれていた。日本に何本ものビルが建とうと、日本人が近代的で洋風の生活を営もうと中は、「日本だらけで、日本で埋め尽くされている」と明言しているのだ。その理由についての明確な答えは書かれていなかったが、私は日本の建物の構造や間取りをすぐに思い浮かべてしまった。「玄関」という空間について。
NY滞在中は、最初の数カ月は靴をはいたままで室内にて過ごしてはみたものの、そのような習慣で育っていないせいであろう、やはり足が疲れる。室内が汚れやすくなる。そこで即「土足厳禁」とした。靴を履いて室内を過ごす習慣の友人が訪ねてきた時は、その旨を一応は話し、後は友人に任せた。凍りつく冬場、編上げのロングブーツを履いている友人に「どうしても靴を脱いで」と強要する訳にもいかない、と思った。あちらでは、よく家や部屋を訪ねたり訪ねられたりと、かなり気軽に家々を互いに訪問し合ったが、帰国後には、そう簡単に訪ねる訪ねられるといった行動が減少してしまった。これはひとえに玄関という特別の空間が、そとからの人を容易に家の中へは入れない、もしくは入れないということに起因しているのではないか、と考えた。招待した客人に対して手放しで歓待し、「ささ、どうぞどうぞお上がり下さい」と捲し立てるように言ったり、言われたり。そこまで言わなくても招待した(された)のだから、当然の如く「家に上げる(上がる)」のだが、アメリカでここまで仰々しくしてドアの向こう側へ入ることはなかった。どのような玄関にせよ、日本の「玄関」という空間はある意味で神聖な場所ではないのか。これはどちらが善い悪い、優る劣るではなく、そのような生活習慣が齎した結果として、私たちは「そと」から「うち」へ移動することにより、別の空間ないしは世界観を創り出すのではないか、と。もう随分と前のことだが、あるアメリカ人が、「私たちは季節の風景を愉しもうと思えばその風景があるところへ出向くが、日本では季節を部屋の中へ取り込もうとする」と話した。その時の私にすれば、「何を言う、旅行もするぞっ」と反論したい気持ちで、が、「季節を部屋の中へ取り込む」ことには何の疑問も湧かなかった。「そうだけど、それが何か?」。ところが、そのアメリカ人は、枝ものの花木をわざわざ活けては床の間に飾る習慣に、疑問を持っていたようだったのである。言われて然り。休日に郊外へ出向くとアメリカのお父さんたちは、めんどくさそうに庭で芝刈り機を動かしている。庭はどちらかというと家屋からの延長で、天井のないもう一部屋。バーベキューを楽しんだりバスケットボールのゴールが設置されていたり。塀や門もなく、公共の「そと」と私的な「うち」がグラデーションのように繋がっている。だから室内からは平坦な芝の目を眺めるしかない。日本庭園は広大な敷地があれば散策したりと別ではあるが、一般家庭では大概の場合、庭の景色を部屋の中へ引き込もうとする。そして枝ものの花木は、活けて楽し飾って美しである。
茶室では玄関に相当する「にじり口」という得体のしれない扉から室内に上がる。異空間への入口である。が、中には季節の掛軸や花を飾り、機密性ある空間のここでも「そと」を意識し「うち」へ引き込んでいる。
レストランではアメリカ人は、広々とした中央の席へ座りたがり、日本人は隅の席へ座りたがる。中央の席は開放感と主賓を表し、壁沿いの隅の席は「うち」と「そと」の境界を作る範囲が狭く、それに適し、また同時に「そと」の空間を効率のよい視野で取り入れ易い。
ところで、選挙は政治家にとって「玄関」である。各政党の「うち」で何が起きているか「そと」の有権者には知る由もないが、中央の席に座っても「そと」を取り入れるのであろうか。
娘が5歳の時だった。クリスマスの朝、プレゼントを前に一通り喜んだ後、ポツリと一言。「サンタさんはブーツを脱いでお部屋に上がったの?」。無論、親は部屋に上がる時は靴を脱ぐ。クリスマスが近い。選挙後の政治家のみなさんは、まさかこの国の子どもの将来を土足で踏みにじることはないであろうが、さて。

0 件のコメント:

コメントを投稿